東京国立近代美術館『ゲルハルト・リヒター展』を観に行った

ゲルハルト・リヒター展』に行ってきた

先日は会社にお休みを貰って東京国立近代美術館に『ゲルハルト・リヒター展』を観に行きました。それにしても東京国立近代美術館、調べてみたら10年前に『ジャクソン・ポロック展』を観に行ったっきり、まだ2度目だったんですね。

ゲルハルト・リヒターはドイツ・ドレスデン出身の、「現代アートの巨匠」と呼ばれるアーチストです。なーんて書きましたがそんなに詳しいわけではありません。現代アートが話題になるときに必ず名前が挙がっていて、「ぼやけた写真のような絵を描く人」程度の認識しかありませんでした。奇妙な絵を描く人だけれど、いったいこれはどんな意図があるのだろう?と思っていたのですが、今回大規模な個展が開かれるというので軽い気持ちで観に行ったんですよ。すると、これがもう、鬼気迫る力作・問題作が並ぶ凄まじい展覧会だったんですよ。

【開催概要】リヒターは油彩画、写真、デジタルプリント、ガラス、鏡など多岐にわたる素材を用い、具象表現や抽象表現を行き来しながら、人がものを見て認識する原理自体を表すことに、一貫して取り組み続けてきました。ものを見るとは単に視覚の問題ではなく、芸術の歴史、ホロコーストなどを経験した 20世紀ドイツの歴史、画家自身やその家族の記憶、そして私たちの固定概念や見ることへの欲望などが複雑に絡み合った営みであることを、彼が生み出した作品群を通じて、私たちは感じ取ることでしょう。

ゲルハルト・リヒター展

展示では初期作から最新ドローイングまで含む約110点の作品が並びますが、基本的には抽象絵画です。それも、様々な色彩の油絵具が幾層にも塗り固められた油彩や、これも様々な色彩のタイルがみっしり敷き詰めらたような幾何学的な作品、さらに、単に灰色だけだったり、単に巨大な鏡や透明アクリル板が置かれていただけの作品だったりと、その抽象度はかなり高いです。

でも、その抽象性を、「何を表しているの?」とか「どんな意味?」とか問わずに、その色彩や質感やリズムや濃淡や作品の大きさを眺めることによって、自分の心の中に自由で多彩な感情や感覚を呼び出すことができるのが楽しいんですよ。そしてそんな抽象的な作品の中に、時折なにかの風景や光景が垣間見えるんですよ。もちろんそれは作者の意図したものではなく、自分の自由な連想の中なら生まれたものなのですが、このように想像力が大きく広がってゆく部分に抽象絵画の面白さがありますね。

作品の数々

例によって気になった作品の数々を紹介してゆきます。今回も写真撮影可の作品が多かったので、それらの写真を貼って行こうと思います。

なにしろこんな具合に限りなくアブストラクトです。でもずっと眺めていると、明暗や色彩の中に風景や作者の感情が透けて見えてくるんですよ。

長い長い長いストライプが描かれた作品です。これだけで10mあります!「長い!凄い!」とただただ感嘆すればいいんです!

カラフルなタイルが敷き詰められた作品です。美しいです。楽しいです。圧巻です。作品はどれも巨大でそれが壁一面に並べられています。こんな空間に放り込まれたら「あーーーー」とか言って思考停止してしまいます。これがアートの力なんだと思う。

大きなガラスが立てかけられています。ガラス危険です。危ういです。そして透明で、向こうが透けていたり、自分が写り込んでいたりします。これだけで奇妙な空間と緊張感が生まれているんです。

「灰色の四角」と「四角い鏡」です(鏡に反対側の作品が写り込んでいます)。意味は?というのではなく、作品と対峙した時に「え?あ?」と驚いてしまう、その驚きが大事なんだと思います。

「ピントの暈けた写真を油彩で精緻に描いた作品」です。ピンボケであることで写真が本来持つ具象性は後退しますが、そのピンボケ画像を本来抽象性の高い油彩で精緻に再現することで、具象と抽象の狭間が揺らいでしまう、というとても面白い試みの成された作品なんです。

これも「撮影ノイズの入った写真(あるいは動画?)を精緻に描いた油彩」です。撮影ノイズは写真が本来持つ精緻さを後退させますが、それを油彩で精緻に描く事で逆に抽象性へとすり替えた、ということもできるんです。

『8人の女性見習看護婦』と名付けられた写真群ですが、実はこの8人の女性は60年代シカゴで大量殺人に見舞われた被害者なんですよ。

21世紀の『ゲルニカ』、問題作『ビルケナウ』

そしていよいよ問題作『ビルケナウ』です。

『ビルケナウ』とはアウシュビッツ・ビルケナウ収容所のことを指します。ビルケナウ収容所は強制労働ではなく当初から殺戮を目的とした絶滅収容所であり、ナチス政権下のドイツにおいて最も長期に渡って大量殺戮が行われていた施設でした。

リヒターはこのビルケナウ収容所で行われていた恐るべき虐殺を秘密裏に撮影した写真を元にこの作品を製作したのです。リヒターはまずカンバスに虐殺写真を下絵として描き、その上に油絵の具を何層も塗り込めてゆく形で製作を進めていきました。その段階で虐殺写真の具象性は失われ「説明されなければ何なのか分からない」抽象絵画として作品は完成します。

しかしこれが「虐殺写真を基にした」と知らなくとも、暗い色彩と冷え冷えとした構成、重々しく塗り重ねられた絵の具からは、ひどく殺伐とした、言いようもない不気味さが漂ってはこないでしょうか。リヒターは絵の具を徹底的に塗り込めることにより、そこに歴史の残した大罪への感情と思考を徹底的に塗り込めたのではないでしょうか。そしてリヒターは今年90歳となる、第2次世界大戦を実際に知るドイツ人なのです。2014年に完成したこの『ビルケナウ』は、ある意味21世紀の『ゲルニカ』とも呼べる作品ではないかと思います。

面白いのはこの『ビルケナウ』を写真撮影し4枚のパネルで構成した『ビルケナウ 写真バージョン』という作品も存在し、同時に展示されていることです。

見た目は「同じもの」ですが、これはどういうことなのでしょう?写真バージョンはオリジナルの「表層」しかありませんから、当然オリジナルに塗り込められた「虐殺写真」は存在しません。また写真は単なるプリントですから、「何層も塗り重ねられた絵の具」という「情念の具現化された物質」も存在しません。つまりオリジナルに込められた「意味」を漂白し、「意味を持たない純粋な抽象絵画」へと対象化したのがこの写真バージョンだと言えるんです。こういった作業をあえてする部分にも、リヒターの面白さがあると思います。