それは長靴だった
関東地方に台風直撃とかで、出勤に長靴を履いて行ったオレである。
雨がじゃんじゃん降ってるなら履物は長靴でいい。靴の中に雨が沁み出して足先から靴下からぐちょぐちょとかテンション下がりまくる。防水でオサレな靴もあるのだろうが、後頭部の薄くなった歯槽膿漏気味のクソジジイでしかないオレにオサレもクソもない。あってたまるかとも思う。あったらいいな、とホントは思っているのだが気恥ずかしいから考えないようにしている。クソジジイはちょっぴりはにかみ屋のおしゃまさんなのだ。
まあそんなことはどうでもいい。長靴だ。オレは長靴を二足持っている。一足はくるぶし丈のハーフブーツスタイルのもので、もう一足はふくらはぎ丈の昔風の長靴、いわゆるゴム長だ。ハーフブーツスタイルのものは「あ、普通の靴に見えましたあ?えっとボク、実は長靴なんですうエヘヘ」といったちょっとした気取りがあるが、ふくらはぎ丈の長靴に関しては「ゴム長だよゴム長。どうしたってゴム長にしか見えないだろうが。なんか言いたいことでもあんのか?」といったどこか挑発的ともいえるゴム長独特の黒々としたテカリに満ち溢れているのだ。長靴も昨今いろんなバリエーションが増えデザインやカラーも様々だが、オレのこのゴム長に関しては、それは長靴の原型であり始祖であり全てをそぎ落とした剥き出しの長靴の姿をそこに表出した存在であるという事が出来るのだ。
ここで「スノトレ」についてお教えしよう
ところでオレは北海道生まれ北海道育ちで、18で上京するまでは北海道のド田舎のちっちゃい町に住んでいた。北海道の冬は結構な雪が降り積もるのだが、子供の頃の冬の履物と言えばなにしろ長靴だった。10月から降り始める雪は4月まで残るが、即ち一年の半分は長靴を履いて過ごすのである。子供の頃履いていた長靴は足首の部分に帯状になった起毛素材が使われており防寒の役目も担っていた。起毛した分素材が厚くなり足首から雪が入り難くなっているのもポイントだ。まあ子供というのは積もった雪の中でもガンガン歩くから結局長靴の中には雪が入ってきたが、サラサラ雪なので一回脱いで逆さにして振ればそんなに足が濡れることはないし、そもそも足が濡れることなど気にも掛けなかったように思う。
で、これが中学生高校生ともなればちょっと色気付いてきて、見たまんま「ゴム長」なのは格好悪いとスニーカー風の防水靴を履くようになる。これは合成樹脂製のくるぶし丈の紐靴で中は起毛素材であり、一見スニーカーだが防水と防寒を兼ね備えているのだ。そのスニーカー風防水防寒靴はなぜだか地元では「スノートレーニング」略して「スノトレ」と呼ばれていた。さらにこのスノトレは土踏まずの部分にワンタッチでオンオフできるスパイクが付いており、道が凍っている時などはこのスパイクをガッと立てて「氷がなんだってんだこちとら道産子だ」と言いつつ(言わないけど)のっしのっしと凍結道路を歩いてゆくのだ。
ツッパリたちのこだわり、「トクナガ」
しかしそんな色気づいた、若干エモなオレら一般高校生に対し、校内に一部存在した「ツッパリ」と呼ばれる生徒たちはスノトレのスマートさや体裁の良さを拒否し、あくまでゴム長の武骨で虚無的な存在感にこだわったのである。
彼らがこだわったのはゴム長の丈の長さだった。ツッパリの皆さんというのは学校制服の丈の長さや詰襟の高さ(当時学校は詰襟の制服だった)にこだわることが多々あるが、ゴム長にもその公式を適応していたのである。まあ要するに長いものが好きなのらしいのだ。そして彼らが誇らしげに履くそのゴム長はひざ丈まであるものだった。ある意味ブーツスタイルという事もできる。とはいえ、実際は魚河岸や畑や牧場でおっちゃんたちの履いている、あの業務用の長靴がその正体なのである。
ツッパリの皆さんはその長靴の事を「トクナガ」と呼んだ。「特に長い長靴」ということなのであろう。彼らはそのテラテラと黒光りするトクナガをいつもガッポンガッポン言わせながら歩いていた。しかしまあ、全然違うとはいえブーツに見えない事もないそのトクナガは、そんなに格好悪いものでもなかった。田舎だったし、実用的でもあったからだ。
このトクナガにももう一つ彼らなりのこだわりがあるらしく、それは長靴のメーカー名だった。当時彼らがよく口にしていた長靴のメーカーは、「ツキホシ」と「ミツウマ」だ。彼らは集まるとよく誰が「ツキホシ」で誰が「ミツウマ」を履いているか、「ツキホシ」と「ミツウマ」では価格や性能の面においてどちらが優れどちらに魅力があるのか、そしてどちらを履く方がよりステータスが高く見られるのかを論じ合っていた。
どっちがどう、というのはオレにはまるで分からなかったが、彼らがそんなことを真剣に話しているのを教室の隅で聞いているのは、よく分からないなりに結構面白かった。とはいえオレや級友たちは、スノトレを履くエモな自分たちとトクナガを履くツッパリたちとを線引きし、決して自分らはトクナガの領域に入る事はないのだと心の中で言い聞かせていた。
転校生の悲劇
そんなある日のことだ。クラスに転入生が来たのである。同じ北海道の、もっと南の土地から来た男子生徒だ。魚臭い漁港があるだけの寂びれた田舎の町にやってきた彼は、同じ道産子なのにもかかわらずどこか垢ぬけていた。彼がもともと住んでいた町はもうちょっと都会だったのだ。マッシュルームカットに見ようによっては甘いマスクでおまけに鍵盤楽器の得意な彼は割と注目を浴び、楽器の腕を買われて学校祭では掛け持ちでロックバンドのキーボード奏者として活躍したほどだった。彼はすぐさまオレやエモな級友たちの友人となった。
そして彼が転校して初めての冬がやってきた。その日オレと何人かの級友、そして転校生の彼は一緒に下校し雪道を帰り始めた。すると彼が妙に足を滑らすのだ。そもそも雪国育ちで雪の中で足を滑らす者など存在するはずがない、と思い込んでいたオレと級友たちは、え、どうしたの?と彼に問いかけた。するとその転校生、「いやあ、革靴って滑るね」とのたまうではないいか。
革靴!?オレたちは驚愕した。見ると確かに彼は革靴を履いていた。田舎の高校生であるオレらは他人が何を履いているのかなんてあまり意識しないので、その時初めてその転校生が転校以来ずっと革靴だったことを知ったのである。同時に、そもそもオレらは革靴なんて履いたことが無かったのだ。「まあ確かに革靴じゃあ滑る……オレらみたいなスノトレ買えばいいのに。便利だよ」オレと級友たちは転校生にアドバイスする。しかし転校生はほんのちょっと押し黙るとこう言った。「でもなんかそれカッコ悪いし」。
そしてその時、オレと級友と、その転校生の間に決定的な溝が生まれたのであった。そしてクラスでも「あいつはエエカッコしいだ」と影口を叩かれるようになってしまったのだ。革靴の事に限らず、それまでどことなく鼻に付くことをポロッと態度で表わしていたからだろう。もちろん彼には何の責任もなく、了見の狭いカッペの高校生である当時のオレらのせいなのだけれど、兎に角彼はハブられてしまったのである。
生々流転
それまでちやほやされていた彼にあまり話しかける者はいなくなった。オレや級友たちはそれほど変わらず接していたつもりだったが、以前のようにワイワイやることは少なくなっていた。そんな微妙な空気の変化を当然彼も感じていたに違いない。話していてもどことなくぎこちないものがあったからだ。
そんな日々が何日か過ぎたある日の朝。それまで浮かない顔で学校生活をしていた彼が、妙に晴れ晴れとした顔で登校してきたのだ。口元に意味不明の笑みを浮かべてオレと級友たちの元に来た彼は、ややはにかみ気味こう言った。「これ買ったんだよ!」
見ると彼は、トクナガを履いていたのである。