橋本治『国家を考えてみよう』『福沢諭吉の『学問のすゝめ』』を読んだ

■国家を考えてみよう/橋本治

国家を考えてみよう (ちくまプリマー新書)

「国家」は「誰かえらい人のもの」ではなく「国民のもの」で「みんなのもの」だということをこの際はっきりさせておかなくてはなりません。そうでないと、うっかりだまされるなんてことになります。とはいえ、実際のところ「国家」や「政治」を考えるのはなぜかとても難しい。大体、日本で「国家」や「政治」のことを考えているなんてことを言うとだいぶ変わった人と見られるが、それはなぜなのでしょうか。それらの秘密を解くカギは、日本の国の成り立ちにあります。その道を辿りながら、著者と一緒に国家というものの本質について今こそ考えてみましょう。

橋本治の『国家を考えてみよう』ではあるが、橋本はそれにはまず「国家を考えないことが重要である」と軽くフックを飛ばす。それはつまり我々が先験的にイメージする”国家”から「国家」を考えるのではなく、国家という概念/観念が形成されたその根底部から検証し始める行為である。

例えば一言に国家と言ってもその在り方、国家の括りの中にある首長と国民の関係性は歴史によって変化し、西洋と東洋(日本)ではその概念も違う。「土地(所有地)」という概念すら西洋/東洋(日本)で異なることも指摘される。さらに日本においてはそれが「国家」となったのは明治時代からでしかないと橋本は喝破する。

それらの歴史性を踏まえ、「国家」が「国民の国家」となるとはどういうことなのか、それが果たして現代に成されているのかという事に肉薄してゆくのが本書だ。本書では暗示に留められているにせよ、橋本が最終的に論じようとしているのは「現代の日本」である。

本書の終盤、橋本は2012年に発表された自由民主党の「日本国憲法改正草案」に触れ、その精緻な検証の中から危険な国家主義の胎動を見出す。この章の圧倒的な説得力には息を呑まされる。この日本が「国民の国家=ネイション」であるためにはどのような自覚が必要なのか。本書は平易で分かり易い言葉で、けれどもしっかりとした論理で、誰もが「考える」ことを促そうとする良書だ。

福沢諭吉の『学問のすゝめ』/橋本治

福沢諭吉の『学問のすゝめ』

自由とは? 平等とは? 明治政府って何やるの? 天皇ってどんな人? 藩と国はどう違う…? まだ庶民が江戸脳だった明治5年に出版され、当時20万部の大ベストセラーとなった『学問のすゝめ』。列強侵略の脅威を一旦は免れたものの、その真の恐ろしさや近代化のなんたるかが全然わかっていない日本人に、諭吉は何を学べと言い、彼らを熱狂させたのか? 当時の時代背景や、ことばの意味、諭吉の思考回路もおりこんだ新感覚の解説本。そしてなぜ現代人も、時代の節目節目に、この本を繰り返し読んでしまうのか、その理由も明らかに! 蒙【バカ】が大嫌いな福沢諭吉の、蒙【バカ】への愛まで伝わってくる、感動の講義録。

「天は人の上に人を造らず」で有名な福沢諭吉の『学問のすゝめ』は初編が明治5年刊行、それから短い項が幾つも書き継がれ、最終稿の第17編が明治9年に出版され完成した。というかそういうことも本書を読むまで知らなかった。その内容は「明治」という新たな時代を迎えた庶民への「啓蒙」の書である。福沢諭吉はこの『学問のすゝめ』により「近代日本最大の啓蒙思想家」と呼ばれるようになったのだ。

しかし福沢は何を「啓蒙」しようとしたのか。なぜ「学問」を「すゝめ」たのか。それがなぜ「明治維新」直後に出版されなければならなかったのか。それを検証し『学問のすゝめ』の本質へと迫ってゆくのが本書であるが、しかし本書は有り体の「解説本」では決して無い。今回の記事の最初で取りあげた『国家を考えてみよう』同様、「国家」と「国民」の在り方を、「明治維新直後」と「現代」に重ね合わせて論じようとしたのが本書の目的なのだ。

日本において「(近代)国家」「国民」とは明治維新により初めて創成された概念であり、それまで日本は江戸幕府という「お侍さんのもの」でしかなかった。その幕府が倒され日本は新時代を迎える事になるが、かといってすぐさま民主主義が敷かれたわけではない。その中で豊富な知見を持つ福沢は、西洋における民主主義、国民の自由と独立、そして政治参加が、この新時代の日本にも必ずもたらされるであろうことを希求したのだ。しかし新時代を迎えたばかりの日本の"国民"たちはこれら民主主義の概念を持っていない。その為の「啓蒙」であると同時に、「学問」の「すゝめ」なのだ。

しかし『学問のすゝめ』はただ国民の自由平等を説くだけのものではないと橋本は論考する。それは「政府」という容易く独善的で暴力的に成り得る機関に常に目を向けなければならないという趣旨が『学問のすゝめ』にはあるのだという。その為には【蒙(バカ)】であってはならない。だからこその【啓蒙】なのだ。

『学問のすゝめ』は時代を重ねて読み継がれてきた書物であるという。そのブームのひとつは太平洋戦争終了後でもあった。時代が危険な方向に舵取りした後、人は『学問のすゝめ』に立ち返ったのだ。そしてなにやらキナ臭い空気に満ち溢れてきたこの現代においても、『学問のすゝめ』の教えようとしたことは変わりはしない。国民が自覚的であるためには何が必要なのか、橋本治が解釈する『学問のすゝめ』には、極めて同時代的な教示があるのだ。

福沢諭吉の『学問のすゝめ』

福沢諭吉の『学問のすゝめ』