映画『全て彼女のために』は個人主義についての映画だった。

■全て彼女のために (監督:フレッド・カヴァイエ 2008年フランス映画)


無実の罪で禁固20年の刑を言い渡された妻を救うために旦那が決意したのは妻の脱獄を成功させることだった…というフランス映画です。国語教師を生業とするありふれた男が「もうこうするしかないんだ」と人生全てをなげうって脱獄計画を立ててゆくんですな。元脱獄犯に面会して脱獄の心得を教示してもらったり、面会を装い足げく刑務所に通っては見取り図を作ったり、逃走資金を作るために遂にはヤヴァイことにまで手を出してしまうのです。そして脱獄が成功したとしてもその後には永遠の逃亡が待っているのを知っている男は、心の中で父や母や兄弟との終生の別れを予感しながら計画実行の日へとひた走るのです。しかし資金を作るために起こしたヤヴァイ事件から足が付き、警察は男をマークし始め、男の計画は一気に危険を増していき…。『イングロリアス・バスターズ』でドイツ人女優・レジスタンス、ブリジット・フォン・ハマーシュマルクを演じたダイアン・クルーガーが奥さん役で主演しておりますよ。

しかしいくら愛する奥さんのためとはいえ、子供の一人もいりゃあそろそろ古女房だし、法も倫理も犯し人生も命も掛けられるもんかなあ〜などとちと思ったりはするわけです。逆にこの"何事にも替え難き強烈な愛!"っつーのが実にフランス映画的であるとも言えますが。「んじゃお前の相方さんが無実の罪で刑務所入れられたらどうするよ!」などと突っ込まれるかもしれませんが(ってか誰がそんなことを突っ込むのかよく分かりませんが)、まあオレは心の底から相方を愛しまくってますから脱獄の一つや二ついつだってやってやりますし国家も社会も幾ら敵に回そうが屁とも思わない野獣のような男ですから何一つ困ることはないのですが(一部棒読みあり)、でもその前に冤罪を晴らすために合法的に努力するっつうのが最初やることのハズじゃないっすか。っていうかこの映画が日本で作られたらそっちのほうから描くでしょうね。それは法というのはそもそも公正なものである、あらねばならない、といういわゆる国家や法への信頼感のせいからだということもできるわけです。

けれどもこの映画ではそれを最初っからすっ飛ばしてしまう。つまり最初から国家も法も信用なんかしていねえ、信用しているのは自分と自分の家族だけだ、というスタンスがこの映画にはあって、で、そのスタンスというのは実にフランス的と言うかヨーロッパ的な価値観の元にあるなあと映画を観ながら感じました。いうなれば個人主義ってやつですな。さすが個人主義発祥の地フランスの映画ですな。だから「深い愛は何事も乗り越えるんだ!」という映画として観ることもできるのですが、実はその背景にフランス的な価値観やヨーロッパ的な思想背景があるんだと思って観てみると、集団主義の国・日本で生まれた自分との価値観の違いをあれこれ発見できて面白い映画でもあるわけですな。こういうふうにみると、例えば"犯罪"それ自体への物の考え方、受け止め方も違うんじゃないのか、とも思えて、この映画における「法も倫理も犯し人生も命も掛けられる」行為というのが、あながち犯罪ということではなく"個人であること"の行使、という捉え方だって出来るじゃないか、とも思えるのです。まあ日本人には容易に受け入れられない考え方ではあると思いますが。だからこの映画は、『全て彼女のために』というより、『全て個人主義のために』という映画だということが出来るかもしれません。

それにしてもフランス映画を観ていていっつも思うんですが、フランス映画に出演する男優っちゅうのがなーんだかどいつもこいつもみーんな無精髭生やした一癖も二癖もあるようなムサくるしく小汚いオッサンばっかりっちゅうのが昔から謎で謎でしょうがないんですよ。対する女優さんは「これぞフランス女優!」てな感じのメッチャ美人が出てくるのにねえ。で、このムサくるしく小汚いオッサン連中が、なーぜか「これぞフランス女優!」てな感じのメッチャ美人にモテたりしてるんですよねえ。なんなんでしょうねこの図式?ムサくるしく小汚いオッサンであるオレとしては悪い気はしないでもないんですが、映画観ていて始終ムサくるしく小汚いオッサンを眺めていなければならないというのも、あんまり楽しい気持ちにはならないんですよねえ。フランスにだってモデルみたいな顔したいい男の俳優はいるのでしょうが、そういうのはジンセーの苦渋とか明暗とかを描く顔だとはあちらの国では思われてないってことなんでしょうかね。確かにその通りっちゃあその通りなんですが、フランス人ってやっぱりよく分かんないなあ、というのがオレの感想です。

■「すべて彼女のために」予告編