マシンフッド宣言 (上)(下)/S・B・ディヴィヤ(著)、金子浩 (訳)
21世紀末、AIソフトウェアに仕事を奪われた人間は心身の強化薬剤を摂取し、労働は高度専門職か安い請け負い仕事に二極化した。大富豪のピル資金提供者を警護する元海兵隊特殊部隊員のウェルガは、ある日襲われクライアントを殺害される。敵は〈機械は同胞〉と名乗り、機械知性の権利と人間のピル使用停止を要求する宣言文を公表。ウェルガは独自の調査を開始する――近未来技術をリアルに描くハード・サスペンスSF!
S・B・ディヴィヤによるSF長編『マシンフッド宣言』は「機械知性の権利」を訴える謎の勢力〈機械は同胞〉のテロ行為によって壊滅的な打撃を受けた世界と、〈機械は同胞〉の正体を暴きテロ行為を阻止するために戦う元海兵隊特殊部隊員のウェルガとの物語である。この粗筋だけだと単純なアクションSF、「AIの叛乱」というありふれたテーマを扱う作品と思われそうだが実はそうではない。物語はもっと複雑でありユニークであり、さらに後半に行くほど哲学的な含意を見せる作品なのだ。
まず面白いのは世界観だ。ポストサイバーパンク的な近未来を描きつつも、この世界で生きる人々はサイバーな肉体改造を全く行っておらず、主人公のような戦士であってもそれは微々たるものだ。この物語世界では「肉体改造」が忌避されているのだ。その代わり行われているのがデザイナーズ・ピルによる心身の強化、病気や怪我の早期回復だ。主人公ウェルガもピルによりずば抜けた知覚力身体力を発揮し、凄まじい戦闘力を見せつける。
もうひとつ面白いのは謎の勢力〈機械は同胞〉の正体がなかなか分からない、それがAIなのかどうかも実ははっきりしないという展開だ。単純に「AIの叛乱」ならばAI制御された地球の全システムを停止するなり暴走させるなりすれば人類など簡単に壊滅状態に追い込めそうなものだが、〈機械は同胞〉のテロ行動は世界中の通信インフラを止めた程度で(それでも大被害だが)、人類の排除ではなくあくまで要求の受託を求めるのである。しかも〈機械は同胞〉はピルの禁止をも訴えている。それはなぜか?というミステリーで物語に引き込んでゆくのだ。
もうひとつはこれが「強烈な家族の物語」であるといった点だ。家族の光景を味付けにするSF作品は多いだろうが、この『マシンフッド宣言』は味付けではなくもっと主軸となっているのだ。主人公ウェルガと共にもう一人の主人公となるのは彼女の妹で遺伝子工学者のニテイヤだ。ニテイヤはウェルガのため陰になり日向になり協力するが、同時に描かれるのは彼女の家族と家族への葛藤を巡るドラマなのだ。ニテイヤに限らずウェルガの家族はウェルガに協力を惜しまず、またウェルガの精神的支柱ともなっている。そしてこういった人間模様、描かれる感情の機微が物語を深いものにしている。
作者であるS・B・ディヴィヤはインド系アメリカ人だが、物語の端々にインド的な視点・感性を感じる部分も面白い。インド系SF作家やインドが舞台のSFというのもそれほど多くないのではないか。主人公ウェルガもインド系アメリカ人であり、ニテイヤにしても南部インド在住のインド人で、近未来インドの日常風景が描かれもする。物語もアメリカの扱いがぞんざいで、一方中国・インド同盟などという現状では考えられない政治構造になっている部分もニヤリとさせられる。家族主義的な物語構成もインド的だと言えるだろう。
インド的という部分で言うなら、この物語には仏教とヒンドゥー教的視点が加味されている(ただしインドでは仏教人口は相当に少ない)。仏教的というのは「不殺」が物語のひとつの切っ掛けになっている部分であり、物語の核心にも仏教が強力な影響を与えている。ヒンドゥー教的というのは主人公ウェルガの行動原理だ。彼女の強力な意志力は「己の成すべきことを成す」という信条により形成されるが、これはヒンドゥー教の聖典『バガヴァット・ギーター』の根幹を成す教えなのだ。一見意固地なほどのウェルガの行動はこの『バガヴァット・ギーター』に裏打ちされているのと思えるのだ。