京極夏彦の「書楼弔堂」シリーズ第3弾『書楼弔堂 待宵』を読んだ

書楼弔堂 待宵 / 京極夏彦

書楼弔堂 待宵 (集英社文芸単行本)

舞台は明治30年代後半。鄙びた甘酒屋を営む弥蔵のところに馴染み客の利吉がやって来て、坂下の鰻屋徳富蘇峰が居て本屋を探しているという。 なんでも、甘酒屋のある坂を上った先に、古今東西のあらゆる本が揃うと評判の書舗があるらしい。その名は “書楼弔堂(しょろうとむらいどう)”。 思想の変節を非難された徳富蘇峰、探偵小説を書く以前の岡本綺堂、学生時代の竹久夢二……。そこには、迷える者達が、己の一冊を求め“探書”に訪れる。

京極夏彦の「書楼弔堂」シリーズは『書楼弔堂 破暁』『書楼弔堂 炎昼』と続き最新刊であるこの『書楼弔堂 待宵』で3巻目となる。時代はそれぞれ明治20年代半ば、30年代、この『待宵』が日露戦争間近い30年代後半。舞台となるのは東京の外れ、雑木林と荒れ地ばかりの小山の上に忽然と建つ異界じみた書店「書楼弔堂」。

その書店には古今東西のあらゆる書籍が売られており、その本を読むべき者を待っているのだという。そしてそこを訪れるのは明治という時代を飾った、あるいはこれから飾るであろう著名な者たちだった。例えばこの『待宵』で登場するのは竹久夢二岡本綺堂寺田寅彦など。彼らは物語の時間軸においては既に名を成す者であったりまだ名も無き者であったりする。

こうした構成の中で描かれるのは、彼ら後年の著名人たちの内面に肉薄する物語である。眷属した僧侶であるという「書楼弔堂」店主は登場人物との対話を通して彼らの深層心理にあるもの、求めていながらまだ気づいていない”何か”を探り出す。こうした物語から導き出されるのは「明治」という時代を彼らがどう生き、何を懇願し、どのような悲しみを抱えていたのかということだ。そしてそれは、「明治」という時代そのものを浮き彫りにしようとする試みでもある。

あたかも楼閣のように建つ「書楼弔堂」の内部は吹き抜けとなった階層上の書庫となっており、まるでボルヘスの「バベルの図書館」を思わせるものがあるが、案外京極自身の膨大な蔵書量を誇る書斎それ自体がイマジネーションの元となっているのかもしれない。書店が主要舞台となるこの物語は実は「本」それ自体をテーマにした物語でもあり、そして「本を読む人」を描いた物語でもあると言えるのだ。

とはいえこの作品の面白さはそこだけではない。各巻には書物を求めるものを「書楼弔堂」へと誘う狂言回し的な人物が主人公として登場するが、その主人公らが「書楼弔堂」店主と登場人物との対話に立ち会いながら、そこに己の立ち位置を見出してゆく過程が物語全体の大枠として存在しているのだ。例えばこの『待宵』では甘酒屋を営むひねくれ者の老人が主人公として登場する。

ただその老人・弥蔵は人に明かせぬ熾烈な過去とその過去の所業によるルサンチマンを抱えた男だった。そして弥蔵の驚愕の正体が明かされるラストにおいて、物語は恐るべき悲痛のドラマとして疾走し始めるのである。このほとばしるような情感の様は『巷説百物語』などにも通じる京極一流の人情噺だ。それは魍魎のように江戸を生き改革の明治に馴染めぬ男の、まさに「時代の仇花」となった者の悲しみである。維新とはなんだったのか、新しい世の中はそれは正しい世の中なのか。それは時代を経て令和という現代に生きる我々への問い掛けでもあるのだ。