夢とはなにか、現実とはなにか。ニール・ゲイマン原作によるNetflixドラマ『サンドマン』がとても素晴らしかった。

サンドマンNetflixドラマ:全10話)

ニール・ゲイマン原作の傑作ダークファンタジーコミック『サンドマン』ドラマ化作品

映画『コララインとボタンの魔女』、『パーティで女の子に話しかけるには』、TVドラマ『アメリカン・ゴッズ』、『グッド・オーメンズ』。これらのタイトルにピンと来た方はいるだろうか。そう、世界幻想文学大賞受賞作家、ニール・ゲイマン原作だという事だ。そのゲイマン原作によるコミック、『サンドマン』がTVドラマ化され8月5日からNetflixで配信されている。これが面白くないわけないじゃないか!

主人公サンドマンは「夢を司る王」であり、ドリーム、モルフェウスなど様々な呼び名を持つ。彼は「エンドレス」という7体の兄弟姉妹の一人でもあり、それぞれにデスティニー(運命)、デス(死)、ディストラクション(破滅)、ディザイア(欲望)、ディスペア(絶望)、ディリリウム(錯乱)という名を持っている。即ちかれらは人間の概念が人格化した存在であり、人類の誕生と共に常にその傍に付き添っていた者たちなのだ。

TVドラマ『サンドマン』のその前半

物語は19世紀、サンドマンがとあるカルト教団の姦計により召喚され、監禁されてしまうところから始まる。百年後、からくもそこから脱出したサンドマンだったが、強力な力を失い、さらにその王国も荒廃し破滅の危機に瀕していた。力を取り戻し王国を再建させるためには奪われた3種の魔導具を見つけ出すしかない。その魔道具とは砂袋、ヘルム、赤い宝石。こうしてサンドマンの魔道具探索の旅が始まる。これが全10話の前半5話。

「3種の魔導具」を得た人間はその力によってそれぞれに己の欲望を満たしたが、それは同時に、「猿の手」の如き諸刃の運命を人間たちに突き付ける。こういった、欲望と運命が彩る人間たちの暗く悲しいドラマがこの前半となるのだ。また「地獄へ降りたサンドマンと冥王ルシファーとの対決」なんて回もあり、いったいどんな戦いが繰り広げられるのかが大いに注目となる。

この前半5話で『サンドマン』の世界観が露わにされ、サンドマンがどのような力を持つ者なのかが明らかにされる。ここでのサンドマンはどこまでも寡黙で人間たちに冷たく、彼らの人生の傍観者でしかない。彼に興味があるのは「夢の王国」を再建しそのルールを厳守すること。サンドマンのこういった立ち位置はあまりにもニヒリスティックであり、同時にクールな魅力に溢れている。演じるトム・スターリッジのゴスないで立ちが実にハマっており、ファンになる方が増えるかもしれない。

TVドラマ『サンドマン』のその後半

後半5話では、サンドマンの「夢の王国」から逃亡した【悪夢】、通称「コリント人」が、人間世界で暗躍する様が描かれる。「コリント人」は人間の悪夢を増幅させ、シリアルキラーたちを野に放とうとしていた。一方、失踪した弟を探す少女ローズが登場するが、彼女は実は他人の夢を行き来できる【渦】と呼ばれる存在であり、「夢の王国」とサンドマンとを究極の危機に陥れることとなるのだ。

ここで描かれるのは弟を探す少女ローズが出会う様々な人間関係であり、それによって起こるドラマである。そしてそのドラマはどれもそれぞれの「夢」に関わることになるのだ。この後半においてはサンドマンの立ち位置にも変化が見られる。これまで「人間の生」に興味の無かった彼が、少しづつ「人間の生」に関わらざるを得なくなり、そこで葛藤する様が描かれるのだ。それは【渦】でもあるローズと関わらねばならないからだ。クールでダークな主人公が時折笑顔を見せるようになるのもこの後半だ。この「サンドマン自身の変化」を描く部分に於いてもドラマとして重要なパートなのだ。

そして「コリント人」だ。悪辣にして残虐、狂人にして策謀家、彼はまるでバットマン・ストーリーのジョーカーのような存在だ。彼は次々に血腥い殺戮を繰り返し、ローズの持つ【渦】の能力を使って現実世界を「悪夢」化しようと企む。彼は【悪夢】を擬人化した存在だが、傑作小説&ドラマ『アメリカン・ゴッズ』がそうだったように、ゲイマンはこういった「概念の人格化」が本当に上手い。

夢とはなにか、現実とはなにか。

「夢の王」が登場し「夢の王国」が立ち現れるこの物語において、「夢とはなにか、現実とはなにか」を描くことこそが真のテーマとなる。夢は単なる現実の影絵ではない。夢には寂寞たる現実を生きる者の希望と救済があり、同時に後悔と断罪がある。それは日々生きる者の無意識の世界であり、その無意識は日々生きる者の予言となり警告となる。それら人類共通の「現実←→夢」の総括となるもの、即ちユング的な【集合的無意識】が生み出したもの、それを物語では【サンドマンの王国】として描き出すのだ。

そして夢と現実の相克にある運命、その運命と抗おうとする人間たちの生き方、人間たちの思い、それを描き出そうとするのが『サンドマン』のドラマだ。ある意味では非常に抽象的であり、時としてその寓意が微妙に掴み難い部分もある作品ではあるが、数あるゲイマン原作作品の中でも最も重要であり、さらに深淵かつ素晴らしい含意を持った作品であろうことは、ゲイマン作品ファンのオレがここで断言してもいい。

自然で当たり前なLGBTQ描写

それと併せ、この作品は昨今の「お気持ち」的なものではなく、作者ゲイマンの作品共通の要素として、LGBTQが「普通に当たり前のものとして」描かれる。その描かれ方は豊穣として愉悦に満ち、時として危険で暗鬱としたものとして登場する。それは言うならば、そもそも【性】とは愉悦と危険のシーソーの両端にあるということであり、それがLGBTQであっても「普通に当たり前のものとして」そういった「愉悦と危険のシーソーの両端」にあるものとして描いているに過ぎない。そしてその「当たり前」な描写が素晴らしいのだ。

ちなみにドラマ後半、どこかで見た事のある人が端役にいるなあ?と思って調べたら『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』監督のジョン・キャメロン・ミッチェルじゃないか!ゲイマン原作映画『パーティで女の子に話しかけるには』の監督もしてたからその繋がりなんだろうね!『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』の大ファンのオレは滅茶苦茶嬉しかったな!

【参考】拙ブログでのコミック『サンドマン』の感想

サンドマン(1)(2)/プレリュード&ノクターン (上)(下)

サンドマン(3)(4)/ドールズハウス(上)(下)

サンドマン (5)/ドリームカントリー 

デスーハイ・コスト・オブ・リビング

サンドマン』予告編