ジョーカーが英雄となりバットマンを投獄する!?/『バットマン : ホワイトナイト』

バットマン:ホワイトナイト/ショーン・マーフィー

バットマン:ホワイトナイト

謎の薬物の過剰摂取により、狂気から醒めたジョーカー。本来の自分を取り戻した彼は、かつて自らの手で蹂躙したゴッサムシティを救うべく立ち上がる。彼の標的となったのは、街の実権をほしいままにしてきたエリートや富裕層。そして、恐怖からの庇護という名目の下に、独善的な正義を振りかざしてきた闇の騎士…バットマンだった。バットマンとジョーカーの立場を逆転させ、真の正義とは何かを問いかける問題作。気鋭ショーン・マーフィが贈る話題作がついに日本上陸!

アメコミは嫌いじゃないのだが買い始めるとキリがなくなるという理由であまり手を出さないことにしていたのだが、この『バットマンホワイトナイト』はなんだか気になってついつい購入してしまった。物語は「正気に戻ったジョーカーがバットマンの行き過ぎた行為を追及し遂に投獄まで追い詰める」といった物語だ。ある意味「正義を監視するのは誰か」という『ウォッチマン』や『シビル・ウォー』のような物語の変奏曲とも取れるだろう。

しかし読んでいて思ったのは、「正義とは何か、悪とは何か」といった単純な善悪二元論的な物語ではなく、善悪の定義が曖昧になり、さらには善だの悪だのといったものは、それらを行使する側の立場によって玉虫色に変ってゆく曖昧な価値観でしかない、という実に現代的な視点から描かれた物語という事だった。

この物語には現代のアメリカの姿を反映している部分がうっすらと見え隠れする。例えば富豪として知られるブルース・ウェインは、莫大な富を占有し格差社会を助長させている唾棄すべき存在として糾弾される。一方ジョーカーはその格差社会の底辺で虐げられ暴発した被害者として自らを喧伝し、底辺社会の市民層に絶大な支持を得ることになる。この辺りの構図は先頃公開されやはり絶大な支持を得た映画『ジョーカー』と似たものを感じる。そしてそれら底辺社会の鬱憤が暴動へと繋がり社会に騒乱を生み出す様は現代アメリカそのものではないか。

その中でジョーカーは「善/正義」となりバットマンは「悪/不義」と見なされることになるが、これすらも同じものへのラベルの貼り換えに過ぎないのだ。なんとなれば「正義」の対義語は「もう一つの正義」でしかなく、即ちそれは対消滅する「正義の無意味化」という現象を浮き上がらせているだけなのだ。

しかしこういった索漠たる問題提起だけが本作の趣旨では決して無い。これら痛苦に塗れた逡巡を経てバットマンは「自分は何をやってきたのか、そしてこれからなにをするべきなのか」を自らに問い、再び己の存在意義を見出すのである。こういった、「困難と絶望を克服した後に新たに獲得した自己」というドラマは、まさに「物語」というものに接することの醍醐味だ。

こうして物語後半は痺れるような興奮と高揚が畳み掛け、「バットマンという物語」それ自体を全て昇華してゆく情感に満ちたクライマックスへと突き進む。グラフィックは華麗であり、アクション描写は映画を観ているが如く迫真的で、人物描写も陰影に富み、物語は驚きに満ちひたすらドラマチック、なにより、「正気と狂気の狭間で揺れ動くジョーカー」という存在にどこまでも心を動かされる。

しかし「ここまでやってしまったか、もはやバットマンという物語に引導渡したのも同然ではないか」と思ったラストだったが、実は続編も刊行されたらしく(「バットマン:カース・オブ・ザ・ホワイト・ナイト」)いやこれは早く読んでみたい。なにしろ非常に完成度の高い作品であり、バットマンに関心のある方には是非お勧めしたい。

バットマン:ホワイトナイト

バットマン:ホワイトナイト