メロメロ素敵の花束/映画『ダウントン・アビー』

ダウントン・アビー (監督:マイケル・エンゲラー 2019年イギリス・アメリカ映画)

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■20世紀初頭の大英帝国貴族とその使用人たちを描くドラマ

NetflixやHuluなどで様々な海外ドラマを楽しめるようになった昨今だが、このオレも幾つか"ハマった"海外ドラマがある。『ダウントン・アビー』はそのひとつだ。『ダウントン・アビー』は20世紀初頭のイギリスを舞台に、大邸宅ダウントン・アビーで暮らす貴族、クローリー一家とその使用人たちの生活を描いたものだ。2010年から2015年まで全6シーズンが放送され、ゴールデングローブ賞エミー賞など様々な賞に輝き、世界で最も視聴されたドラマの一つとしても知られている。

とはいえ、このドラマを観る前は、オレの如きさもしいルンペンプロレタリアートが「貴族の生活とやらを描くドラマ」を観るなど片腹痛い、と思っていた。しかし、物見雄山のつもりで観始めたこのシリーズに、結局は大いに魅せられてしまったのである。確かにこのドラマには英国貴族の煌びやかな生活は描かれはすれ、移ろいゆく時代の波に変換を余儀なくされつつある彼らの姿もまた描いていた。

その中で、彼らはただ己の地位に胡坐をかくのではなく、領主としての務めと矜持を持ち、自らの家族と、使用人らも含む民衆の生活にどう責任を取るのかに腐心していた。もちろんこれは美しきフィクションであり、実際に英国貴族誰もがクローリー一家の様に民衆に理解と聡明さを示していたかどうかなど知る由も無いが、少なくとも、没落が始まりつつあった大英帝国の中で、人々がどう考えどう生きたかのか、それを貴族の暮らしの変遷から描いたのがこのドラマだった。「時代は変わってゆく」、これが『ダウントン・アビー』のテーマだったのではないかと思う。

併せて、下世話ながらもやはり当時の貴族の華麗な暮らしぶりに興味を掻き立てられ感嘆していたことも白状しておこう。広大で堅牢な城の中の暮らし、その中の豪奢な調度や絵画、服飾や宝飾の豪華さ、優雅な晩餐とたおやかな会話、これらは一つの文化史を覗き見るかのようでひたすら眼福である。描かれるイギリスの庭園風景を見るだけでも心慰まるのだ。また逆に、使用人たちのつましさや人懐こさ、人間臭い諍いと誰もが抱く様なささやかな希望といじましい悩み、これらにもまた大いに感情移入させられた。このドラマは貴族たちばかりではなく使用人たちのドラマでもあった。

■映画版『ダウントン・アビー

長々とTV版の感想を書いてしまったが、実は映画版もそれらと全く変わらないドラマが繰り広げられる。映画版はTVシリーズ最終回の2年後の事件が描かれる。それはダウントン・アビーに国王夫妻の訪問が告げられる、というものだ。国王夫妻を迎えるためにクローリー家の面々も使用人たちも大忙しの大騒ぎ、こうしていよいよ国王を迎える事になるものの、その合間にもあれやこれやの人間関係のこじれや怪しい事件、危険な陰謀が勃発して事態は一筋縄ではいかないことに……というものだ。

この映画版で描かれるのもTV版と同じく、斜陽しつつある貴族一家の憂愁と心の絆、未来への希望と変わらない愛の物語だ。同じく使用人たちの、あたかも家族同然と言っていい気兼ねの無さと信頼で結ばれた関係だ。しかしTV版との違いはやはり映画ならではの予算が掛けられた豪華さや、スクリーン上映を意識したより美しい映像の在り方、2時間という上映時間の中にたっぷりと盛り込まれたエピソードとその緊密な展開の中にあるだろう。単なるファン向けのスペシャル企画ではなく、一本の映画として綺麗にまとめられているのだ。だからTV版を観ていない方にも十分楽しめるのではないかと思う。

もうひとつ特筆したいのは、この物語が主に「女たちの物語」であるということだ。確かにダウントン・アビー当主にはロバート、執事としてはカーソンという男性が取り仕切るが、ドラマを大きく動かしているのはクローリー家長女のメアリーであり次女イーディスであり、ロバートの母バイオレットとその従弟モードとの確執であり、そこに伯爵夫人コーラやイザベルが口添えし、様々なエモーショナルなシーンを生み出す。使用人の側では家政婦長ヒューズが積極的に動き回り、侍女アンナの活躍や料理番パットモア、デイジーコンビのお喋りが楽しい風を吹かせる。さらに英国王室メアリー王女のある決意もまた描かれることとなる。

英国に女性参政権が施行されたすぐ後の時代を描くからこそ、変革への切望や慣習への疑問は男よりも女たちのほうがよりヴィヴィッドに顕れるのだろう。とはいえ男性陣が使い物にならないのではなく、そういった女性たちにきちんと理解と愛情を示し後ろから支えているのだ。また、この作品ではセクシャリティについても描かれることになる。これもまた、「変わりゆく時代」のひとつの象徴なのだ。

■”素敵さ”に満ち溢れた作品

こうして映画版として完成した『ダウントン・アビー』は、どこか性善説すら思わせる人の心の美しさや思いやりや温かさがふんだんに盛り込まれている。同時に英国風の意地悪な笑いやドタバタも想像以上に散りばめられ大いに笑わされることになる(モールズリーさん!あんた一人で持って行き過ぎだよ!)。人間同士の抜き差しならない緊張も描かれ、決してぬるま湯の様な退屈なドラマに堕していない。総じて思うのは、やはりこの物語は、とても美しいものだ、ということだ。露骨さも露悪も醜悪さも無く、格調の高さと均整があり、審美眼に優れ、人間性への信頼があり、もう二度と戻らないであろうノスタルジーの甘やかさがある。なんとこれは素敵な物語なのだろう。

TV版最終話の大団円は全てが幸福の中で美しくまとまり有終の美を飾っていた。しかしその後を描いたこの物語は、なんとそれを凌駕してしまうほどに素敵さに満ち溢れた作品となっていた。ダウントン・アビーファンとして登場人物たちの人生を追い掛け続けていた者にとって、これはもうメロメロに感慨深いことだった。沢山の素敵さを束ねた素敵の花束の様な映画、『ダウントン・アビー』にひとりのファンとしてありがとう、と言いたい。

■映画『ダウントン・アビー』予告編 

■映画『ダウントン・アビー』約10分でおさらいできる特別映像