「失われた聖櫃(アーク)」を巡ってイスラエル人とパレスチナ人が鉢合わせるコミカルなグラフィックノベル『トンネル』

トンネル / ルトゥ・モダン (著), バヴア (翻訳)

トンネル

主人公ニリは、幼い頃、考古学者の父親を手伝い、幻の「契約の箱」探しに従事したが、民衆蜂起(インティファーダ)が勃発し、世紀の発見をする機会を逃してしまった。 それから長い年月が経ったある日、ひょんなことから、かつて父が所有していた「契約の箱」のありかを示す石板が、父のライバルである大学教授のラフィに売りに出されることが判明する。ニリはラフィより先に「契約の箱」を見つけ、父が実現できなかった「契約の箱」発掘をなしとげようと決意するが――。

2023年10月7日、パレスチナガザ地区を実効支配するハマスイスラエルとの「パレスチナイスラエル戦争」が勃発した。戦闘は酸鼻を極め、双方の死傷者は2024年4月において4万人以上に達するが、その殆ど、3万人余りがパレスチナ人民間人であり、もはや大量虐殺の様相を呈している。そして今現在も戦争は終わりが見えない状態だ。

そんな情勢の中出版されたグラフィックノベル『トンネル』は、十戒の碑文が彫られた石板が封入されていると伝えられる「契約の箱」発掘を巡り、イスラエル人とパレスチナ人がトンネルの中で鉢合わせ、コミカルな大騒動が巻き起こるという物語なのだ。「契約の箱」とはスピルバーグ映画『レイダース/失われた聖櫃《アーク》』でも取り上げられたあの「聖櫃(アーク)」だ。問題は「契約の箱」が、イスラエルパレスチナヨルダン川西岸地区との境界に建てた「分離壁」の下、それもパレスチナ寄りに埋められているらしいということだった。

(※注:舞台となるのは現在戦争の起こっている「ガザ地区」近辺ではなく、飛び地となったパレスチナ自治区の「ヨルダン川西岸地区」近隣であることに注意されたい。)

主人公はイスラエル人考古学者の娘で現在無職のシングルマザー、ニリ。彼女はかつて父と「契約の箱」の発掘作業を行っていたが、インティファーダの騒乱により断念。しかし今時が熟し、再びその発掘を再開する。だが「分離壁」の地下を掘り進んでいた最中、トンネルの中でパレスチナ側から掘り進んでいた男たちと遭遇してしまう。その男マハディとその弟はかつて「契約の箱」発掘に協力していたパレスチナ人だったのだ。その頃同時に、ヘブライ大学考古学科教授ラフィ・サリードが「契約の箱」発掘の手柄を奪おうと暗躍し始めていた。

非常に楽しめるお話だった。なにしろ「契約の箱」発掘という世紀の発見が為されるのか?と大いに興味を駆り立たせ、主人公ラニとサリード教授の発掘競争にハラハラさせられ、イスラエルラニ一行とパレスチナのマハディ兄弟の関係はどうなるの?とヤキモキさせられる。物語のトーンは明るく、どの登場人物もとぼけていて、始終ドタバタを繰り広げている。登場するイスラエル兵すら頓珍漢な連中なのだ。そして全編に散りばめられたユダヤ教の教義と故事に関心が沸く。オールカラーのグラフィックも楽しくて親しみ易い。とはいえ途中途中にイスラエルパレスチナの紛争の傷跡はきっちりと描かれている。

作者はイスラエルグラフィックノベル・アーチスト、ルトゥ・モダン。作品は2020年に刊行されたもので、2023年の「パレスチナイスラエル戦争」以前のものとはいえるが、そもそもパレスチナイスラエルの紛争と軋轢はイスラエル建国以来絶え間なく続いてきており、その中で「パレスチナ人とイスラエル人とが相まみえるドタバタコメディ」というものが存在し得るのか、と最初奇妙な感覚を覚えた。しかも物語の中で双方の国の登場人物たちは最初対立しながらも次第に協力し合うようになるのである。

より一層緊張の増した状況にある今、「対立から協力へと向かうパレスチナイスラエル」というテーマを、無邪気な御伽噺と切り捨ててしまうのは簡単だ。しかし、せめてグラフィックノベルの中でそのファンタジーを描き、そういった未来を夢想することは間違ったことだとは思わない。むしろ、理想なき認識は決して未来へと繋がらないものなのではないか。

同時に思ったのは、物語の中の登場人物たちは、イスラエル人にせよパレスチナ人にせよ、聖典や故事にまつわる「太古/過去の物語」に憑りつかれた人々なのだな、ということだ。物語はイスラエル側の視点で描かれるが、彼らにしても常に聖書の文言を唱えユダヤ教の伝承が口に上り、それらが生活を支配しているのだ。歴史は重要だが、己の歴史的連続性にこだわり続けるのはなにか滑稽なものに思えてしまう。というか、呑気なイスラエル軍の描写も含め、あえて作者が批評的・諧謔的に描いているようにも思えるのだがその辺りどうなんだろうか。

だが自らは何者なのかというアイデンティティは決して蔑ろに出来るものではなく、そもそもイスラエルという国そのものが自らがユダヤ教の民であると自認した者たちによる移民国家なのである。パレスチナイスラエルの問題を離れて、例えば日本人としての民族的アイデンティティとはなにか、ということもふと考えさせられてしまった物語でもあった。この困難な時期にこのような物語を送り出した作者や訳者陣、そして出版社の英断に敬意を表したい。しかしジョー・サッコの『パレスチナ』も読んでみなきゃダメだな。

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