生きる理由、生きる意志。/映画『マッドマックス:フュリオサ』

マッドマックス:フュリオサ (監督:ジョージ・ミラー 2024年アメリカ映画)

映画『マッドマックス:フュリオサ』は荒廃した世界で巻き起こるウルトラバイオレンスを描いたジョージ・ミラー監督作『マッドマックス』サーガの第5弾である。前作『マッドマックス 怒りのデス・ロード(MMFR)』の前日譚として製作され、『MMFR』で重要な役割を演じたフュリオサが主人公として活躍する。

このフュリオサ、『MMFR』ではイモータン・ジョーにより支配された砦「シタデル」で大隊長を務めながら、イモータンの女たちと共に「緑の地」を目指して逃走、その後マックスを仲間に加え壮絶な戦闘を巻き起こした女性だ。この作品では過去に遡り、フュリオサが幼い頃「緑の地」から拉致され、「シタデル」での過酷な日々を生き残り、どのように大隊長へと成り上がっていったかが描かれてゆく。そこにはフュリオサを拉致し地獄へ突き落とした張本人、ディメンタスへの燃える様な復讐心が関わっていたのだ。

主人公フュリオサを演じるのはアニャ・テイラー=ジョイ、宿敵ディメンタスにクリス・ヘムズワース。その他『MMFR』に登場した多くのキャラクターが登場し、前日譚として大いに盛り上がるが、『MMFR』や『マッドマックス』サーガを観ていなくても十分楽しめる作品だろう。

『フィリオサ』は前日譚であると同時に外伝的な性格を持った物語だ。これまで主人公だったマックスは一応登場せず、女性であるフュリオサが主人公となっている部分でこれまでのサーガと一味違うものとなる。さらに『MMFR』の過去を描くことで『MMFR』世界を説明する補完的な内容でもある。そして今作の最大の敵であるディメンタスが、これまでの奇怪な相貌の悪役と違い、ダークヒーロー然とした二枚目半のマッチョなのだ。こういった部分でジョージ・ミラーがこれまでのサーガともう一つ違う世界を描こうとしたのが伝わってくる。

全体的な構成やビジュアルにしても、オープニングからハイカロリーかつテンコ盛りの展開を見せる『MMFR』と比べるなら、前半子供時代のフュリオサから現在のフュリオサまでを的確に見せてゆく部分でテンポが異なる。また、きちんと調べたわけではないが、実写にこだわり生々しいアクションの展開する『MMFR』と違い、『フュリオサ』は特撮処理したアクションシーンが割合多かったように思う。これは善し悪しではなく作品の見せ方を変えたかったからだろう。サーガを引き合いに出すなら『フュリオサ』は前半部が『マッドマックス サンダードーム』を、後半部は『マッドマックス2』を思わせた。

そしてこれまでのサーガと『フュリオサ』との大きな違いは、サーガにおいては虚無を抱えた男性主人公マックスが、巻き込まれ型の事件の中でなけなしのヒロイズムを嫌々ながら発揮する物語であったのと比べ、『フュリオサ』では女性主人公フュリオサが、絶望的な状況の中でも決して「希望」を失わず、「復讐」そして「故郷への帰還」を確たる目的としていることだろう。それは物語の中でフュリオサ以外のキャラクターが徹底的に「希望なんてない」と連呼することから逆に浮かび上がってくる。

「生き残ること」がサーガの中で最重要な事柄として描かれるのは間違いない。『マッドマックス』サーガは、地獄のような世界で、それでも「生きろ、生き延びろ」と訴えかけていた。ではなぜ生きるのか、生き残ろうとするのか。それに対しフュリオサは強烈な目的意識を持つことで一つの回答を明示する。この「生きる意志」を描いた部分で映画『フュリオサ』はサーガの中でも特異な作品であると同時に、新たな指標を見だした作品と言えるのではないか。ニヒルなマックスに比べ、フュリオサの描かれ方はエモーショナルなのだ。

映画的にいうなら、主人公フュリオサを演じたアニャ・テイラー=ジョイはアクションや立ち姿において若干線の細さを感じてしまったが、最近要注目の女優を抜擢したこと自体は映画に大いに貢献していたと思う。クリス・ヘムズワースが悪役を演じるというのも新奇で面白く感じた。これまでの悪役が少々人間離れしていたことを考えるなら、あれだけ悪辣なことを仕出かしながらも、娘の形見のぬいぐるみを後生放さず持っている部分に妙な哀れさを感じさせ、そういった役柄にクリス・ヘムズワースは大いに応えていたように思う。アクションシーンは『MMFR』ほどテンコ盛りではないにしても、一旦発動するとこれまでの作品では見たことの無いような怪しげなマシンやギミックがこれでもかと登場し、お腹いっぱいにしてくれるだろう。そして今作、今まで最も砂漠の無常が巧く描き出されたように思う。

《6月2日追記》

『マッドマックス:フュリオサ』は5月31日にIMAXで視聴し、このブログの感想文を書いたが、その後6月1日に今度はDolby Cinemaでもう一度視聴したので、ブログ文を追記しても差し支えないだろう。

『マッドマックス:フュリオサ』の冒頭で登場する「緑の地」は、15年後の物語である『MMFR』では汚染された毒の沼地と化し既に滅んでしまっていた。物語を通じてフュリオサは、「緑の地」から拉致されながらも結果的に生き延び、さらにはイモータン・ジョー一派を撃破して「シタデル」を巡る世界を平和へと導く。即ち拉致されていなければフュリオサは「緑の地」と共に滅んでいたかもしれないし、当然世界を変えることもなかった。そう考えると、映画『マッドマックス:フュリオサ』は、血を吐くような怒りと困難に満ちた物語であったとはいえ、「世界をより良い方向へ導く」ための壮大な助走であったと考えることができるのだ。まさに数奇な運命としか言いようがないじゃないか。

振り返ってみると、実は『MMFR』自体が殆どの重要な部分がフュリオサについての物語で、だからこそ彼女の出自を物語る『マッドマックス:フュリオサ』が作られたのは必然だったのだと思う。そもそも、ジョージ・ミラー監督は、ド派手なアクション演出を可能にする監督である以前に、例えばミラー監督の前作『アラビアンナイト 三千年の願い』に代表されるように、「物語/伝承/伝説/童話」といった意味合いでの【TALES=テイルズ】の監督なのだ。そして『マッドマックス』サーガも、サーガという意味合いにおいて【TALES=テイルズ】の映画だと言えるはずだ。そう考えるなら、主人公フュリオサの生い立ちから属する社会の命運を賭けた戦いまでを丹念に描いたこの作品は、『MMFR』の狂騒とはまた別のベクトルにある、実にミラー監督らしい作品なのではないだろうか。