マトリックス レザレクションズ (監督:ラナ・ウォシャウスキー 2021年アメリカ映画)
オレと『マトリックス』
『マトリックス』とは何か?というとそれはバレットタイム撮影によるアクションであったり、「クンフーとジャパニメーションの引用」であったり、緑色のフォントが垂直に降ってくるマトリックス・コードであったり、サングラス&ロングコートのスタイリッシュないで立ちであったりするだろう。それらの重合的なイメージが『マトリックス』とも言えるだろう。それらは十分に関心を引き興奮を導くものであるが、オレにとってもう一つ、『マトリックス』といえば「現実と虚構の相克」をSF的に明示した作品だという事だった。
この現実は単なる夢で、本当の自分はどこか別の場所にある本当の現実の中でそれを夢見ているのかもしれない。現実と呼ばれていたものは実は虚構で、今自分が気付いていない真の現実がどこかにあるのかもしれない。こういった夢想は荘子による逸話「胡蝶の夢」の昔から語られてきたもので、現在でも様々なフィクションで同工の物語が作られているはずだ。子供じみた話だが、オレ自身もたまにそんなことを夢想する。この現実は現実じゃなくて、本当の自分と本当の現実の存在する世界がどこかにあるのではないかと。映画『マトリックス』シリーズはそんな夢想と直結しているのだ。
映画シリーズとしては1作目『マトリックス』は「ふーん」という感じで観てしまった。映画の出来のせいではなく、当時メディアでの露出が多すぎて、映画の見所を殆ど知ってしまっていたからだった。2作目『マトリックス リローデッド』は用語が難解でついていけない部分もあったが、1作目のゴージャス版として大いに楽しめた。だが3作目『マトリックス レボリューションズ』は最初のコンセプトから逸脱して「機械生命との大戦争」に至ってしまいあまりノレなかった。そもそも「地下にある人類最後の社会ザイオン」というのが暗くてババッチくて油臭そうで「別にこんなとこ滅んでも……」と思ってしまったのだ(オイ)。
『マトリックス』の復活
そんなマトリックスが18年ぶりに復活するという。え?『3』でネオ死んじゃったんじゃ?と思ってたのだがそういう事ではなかったらしい。タイトルは『マトリックス レザレクションズ』、マトリックスとネオの復活であり再起動という事なのだろう。しかしそれは単に再起動してお話の続きを演じるだけではなく、これまでのトリロジーの批評・再考を自ら行っている部分が注目すべき点だろう。
『レザレクション』の物語において主人公ネオは主演のキアヌ・リーブスが年齢を重ねた如く歳を取っている。彼は仮想世界において『マトリックス』そのもののゲームを開発し大ヒットさせた男という事なっているが、ここで一度メタ・ストーリーである『マトリックス』の物語それ自体が仮想であったかのようなメタ・メタ構造を成すことになる。
そこからの物語は過去の『マトリックス』トリロジーの「再話」を繰り返しながら、『レザレクション』ならではの物語を「再構築」することになる。即ち『レザレクション』は単なる「お話の続き」なのではなく、過去の『マトリックス』トリロジーを批評し、「今この21世紀に『マトリックス』のテーマを再話するためにはどのような方法が最良なのか・どのような物語であるべきなのか」を再考したものとなっているのだ。それは全て成功しているとは言えないにしても、自らの作品への監督自身の「誠意」を感じ取ることができる。
『マトリックス』の再話・再構築
それによりかつての「マトリックスらしいアクション」は後退した形となり、これ見よがしの外連味からトリロジー時代から進歩した最新VFXを使ったより自然でスムースなアクションへと移行している。これは監督の裁量の変化なのだろうが(二人体制から一人へ)、見劣りするというよりもラナ・ウォシャウスキーにとってのアクションがこの形であり、さらにまたこの部分でトリロジーを踏襲する意思がなかったということでもあるのではないか。
本作におけるアクションは一本調子の部分があるが、トリロジー後半も実際のところ一本調子のアクションであったことを考えると批判するほどのものではないと感じる。一方、登場人物たちのキャンプなファッションは相変わらずで、ここは今まで通り目を楽しませてもらった。
また「選択/自由意志/自己発見」といったトリロジーにおけるテーマも、やはり踏襲されつつ再解釈されているように思えた。なにより大袈裟な「救世主伝説」を一度捨て、「個人としてのネオ」に立ち返っている部分に好印象を持った。「救世主伝説」はトリロジーにおいて「それも一つのプログラムだった」と明言されているが、それにしてもネオが万能過ぎて白ける部分もあったのだ。
今作においてネオは空も飛ぶことができないほど弱体化しているが、それによりネオは「弱さも持つ人間的な存在」として登場する。その彼の前に仮想世界に住みながら過去の記憶をすっかり無くしたトリニティーが現れる。ここでネオは彼のことを忘れたトリニティーに対しいじましいほどの手探りで愛を確かめようとするのだ。そしてここにこそこの物語の真価があるようにオレには思えた。
ただ一人の不確実な人間存在として愛を貫こうとすること
トリロジーにおいても確かにネオとトリニティーとのロマンスは描かれたが、それは「超越存在者としての愛」であったように思う。しかし『レザレクション』におけるロマンスの扱い方はもっと孤独でリアルな「個」としての愛なのだ。ここが『レザレクション』における進化の一つであると思うのだ。救世主でもなく、英雄でもなく、ただ一人の不確実な人間存在として愛を貫こうとする主人公の姿を描くこと、そこに『マトリックス』シリーズが再起動した意義が含まれていると思うのだ。
そしてこのネオとトリニティーを演じるキアヌ・リーブス、キャリー=アン・モスの年齢の重ね方が実に素晴らしい。平たく言うなら「トリロジーの頃より老けた」ということなのだが、それを映画作品ではよくある「若く見える技術」を使って胡麻化すことはせず、二人をありのままの年齢のありのままの姿で、そのまま物語に生かしているのだ。
ここには監督自身の「あれから何年も経った”今”」を描こうとする意志があったからではないか。それは物語世界の経年だけではなく、監督と監督自身を取り巻く世界が「あれから何年も経った」こと、それにより自分も世界も変化を余儀なくされたこと、そしてそれらに対するなにがしかの思いが込められているということなのではないのか。その「変化」それ自体が「再話・再構築」という形に結実したのがこの作品だともいえるだろう。だからこそ映画『マトリックス レザレクションズ』は監督ラナ・ウォシャウスキーの魂の遍歴を写し出した作品だという事もできるのだ。