若き日のデヴィッド・ボウイを描く映画『スターダスト』はちょっとナニだったなあ。

スターダスト (監督:ガブリエル・レンジ 2020年イギリス映画)

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若き日のデヴィッド・ボウイを描く伝記映画

2016年、突然の逝去に世界を愕然とさせたロック・アーチスト、デヴィッド・ボウイ。数々の名曲と名アルバムを生み出してロック界にその名を燦然と刻み付け、ポップアイコンとして様々なカルチャーに影響を与え、絶大な人気と信奉者を生み出した巨大なる才能、それがデヴィッド・ボウイだった。

オレは中坊の頃から40年以上に渡ってデヴィッド・ボウイのファンである。まあ大ファンであると言ってもいいのかもしれない。そんなデヴィッド・ボウイの伝記映画が製作されると聞いてオレは湧き立った。その内容はボウイの名作中の名作アルバム、『ジギースターダスト』が生み出されるまでの、若き日のボウイを描いたものなのだという。確かに50年以上もあるボウイのキャリア―の中で、ある時代のみを切り取った映画を製作するというのも一つのアイディアだろう。

そんなわけで公開をとても楽しみにして待っていたオレなのだが、実際作品を観てみたらこれが、う~ん……。

デビッド・ボウイの若き日の姿と、彼の最も有名な別人格「ジギー・スターダスト」誕生の裏側を描いた伝記映画。1971年、3作目のアルバム「世界を売った男」をリリースした24歳のボウイはイギリスからアメリカへ渡り、マーキュリー・レコードのパブリシストであるロン・オバーマンとともに、初の全米プロモーションツアーを開始。しかし彼は自分が世間に全く知られていないこと、そして時代がまだ自分に追いついていないことを知る。ベルベット・アンダーグラウンドアンディ・ウォーホルとの出会いなど、アメリカで多くの刺激を受けるボウイ。一方、兄の病気も彼を悩ませていた。

スターダスト : 作品情報 - 映画.com

物語は、当時まだシングル『スペース・オディティ』のヒットしかもっていなかった若き日のボウイが、新作アルバム『世界を売った男』のプロモーションの為にアメリカを訪れる、というのがメインとなる。プロモーションといってもアメリカではボウイは殆ど無名、パブリシストであるロン・オバーマンと二人、1台の車でまるでドサ周りのようにアメリカの街々を巡るが、メディアはまるで好意的に取り入れない。同時にボウイは、精神病の兄テリーの不幸と、精神病の気質を持つ自らの家系が、いつしか自分にも疾病を発症させるのではないかという不安に苛まれている。しかしボウイは、アメリカで出会う様々な人々と、己の不安を払拭するヒントを元に、世界的名作アルバム『ジギースターダスト』の構想を練り上げてゆくのだ。

伝記映画としては今一つの作品

とまあこのような構成を持つ物語で、料理の仕方によっては幾らでも面白くなる要素はあるはずなのだが、実際の映画はまるでダメだった。地味だった。退屈だった。「ドサ周り新人の気苦労」ばかりを見せつけられるロードムービー的な部分が平板で長く、ジョニー・フリン演じるボウイは「ビッグになりたい」と言う割りにはやる気があるんだかないんだかはっきりせず、パブリシストのロン・オバーマンは一人で空回りしているばかりで、観ていて段々うんざりさせられるのである。

最大の難点はボウイの曲が一曲も使われていないということだ。これはこの映画がそもそもボウイの家族に公認されておらず楽曲の使用も許可されていない作品であるからなのだが、これにより「ボウイ伝記映画」としての魅力が大いに損なわれてしまっているのだ。例えば同じロックアーチスト伝記映画として、フレディ・マーキュリーを描いた『ボヘミアン・ラプソディ』、エルトン・ジョンを描いた『ロケットマン』、ジム・モリソンを描いた『ドアーズ』などに通じる魅力が全く無く、そういった伝記映画を期待すると大いに裏切られてしまう。

まずなにより、ボウイを演じるジョニー・フリンが、「とてつもない才能を秘めた若者」に全く見えない。単にエキセントリックな服装とエキセントリックな言動をするだけの、「アートかぶれな、その辺のなろう系のヒヨッコ」にしか見えないのだ。おまけに常になよなよくよくようじうじしているだけで、「大スターの卵」どころか、「なんだかぱっとしないお兄さん」なだけなのである。

実のところデビュー当時のボウイはまさにそんな若者だったのかもしれない。しかし「ボウイなんだから才能があったのは当たり前でしょう」という段階から話を始められてしまうと、ファン以外には「なんなのこれ?誰なのこれ?」としか思えないのではないか。ここで「きらりと光る非凡なる才能」、すなわち「圧倒的なソングライティングの才を秘めた未来のスターの予感」を提示しなければ、物語として説得力を与えられないのだ。つまり「楽曲が全く使えない」という事の弊害がここで露呈してしまっているのだ。これではファンムービーにしかなっていないばかりか、ファンムービーとしてもあまりに魅力に乏しい。

「形態模写大会」としての『スターダスト』

この映画がポイントとしたかったのはボウイと精神病の兄との愛情と確執だったのだろう。ボウイのキャリアの中でそこは大きくクローズアップすべき点なのかどうかは別として、とりあえず「映画的演出」としては観客の感情を大きく揺さぶるポイントになったはずだ。ただこれも演出の拙さというか地味さにより、「ボウイさんって家族で苦労したんだねえ」程度の感想しか湧かず、それがアーチストとしてどれだけ作品の原動力になったのかが演出しきれていないように感じた。

とはいえ、「形態模写大会」としての『スターダスト』はそれなりに頑張っていたのではないかとは思う。ジョニー・フリンがボウイに似ていたかどうか、というよりも、ボウイの如きルックスを誰かに求めるのが不可能という点から見るなら、結構頑張っていたのではないか。お肌が疲れているとか無精ひげだったりとか、ドレスが着たきり雀だったりとか、当時のボウイには考えられないことは置いておこう。なんだか努力していた、そこは評価したいのだ。ただボウイの歯並びの悪さまで似せる必要があったのかどうかは疑問だが。あとホントのボウイは女装はしていたけどあんなになよなよしていなかったと思うんだがな。ボウイの当時の妻アンジーの女傑ぶり、これは最高だった。本当にこうだったのだろうと思わせる演出がよかった。ボウイのバックバンドのギタリスト、ミック・ロンソンもいい線行っていたと思う。マーク・ボランの登場もちょっと嬉しかった。

スペース・オディティ

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