再び、ブライアン・フェリーの季節。【前編:オレとブライアン・フェリー】

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ブライアン・フェリー。イギリスのロック・バンド、ロキシー・ミュージックのリーダーにしてヴォーカルだった方である。ロキシーは既に活動を停止しているが、このフェリーさんは最近でも精力的にソロアルバムを制作し続けている。

ロックを聴き始めた10代の頃、アホみたいにロックばかり聴いていた20歳の頃、それはもう沢山のバンド、アーチストを聴いたが、オレの中で核というか芯となっていたのはデヴィッド・ボウイロキシー・ミュージック/ブライアン・フェリーだった。そしてロキシー・ミュージックとフェリーさんのソロのどちらが好きかといえば、オレはフェリーさんのソロだった。

なんだろう、フェリーさんの音楽は、どこかヘナヘナとしながら、核心の部分は強固な美意識と歌心に満ちていて、そのバランスが絶妙なのだ。フェリーさんと言えばラブソングなのだが、あたかもドンファンの如き愛の狩人的な歌を歌いながら、同時に愛の不在の根源的な悲しみを限りなく真摯に歌い上げる。おそろしくエモーショナルに沈溺しているように見えて実は技巧的に研ぎ澄まされている。とかくラブソングは若者のリビドーの婉曲された発露ではあるんだけれど、ことフェリーさんに関しては求道的とすら思える一大ライフワークとしてのラブソングなのだ。むしろフェリーさんは「恋愛ジャンキー」と言ってもいい。どこか危ういのである。

そんなに愛してやまなかったフェリーさんの音楽を、30代を過ぎたころから聴かなくなっていた。それは、10代20代の頃に聴いていたフェリー・ソングが、その頃のオレの惨めったらしい恋愛体験とあまりにもシンクロしすぎていて、聴くのがちょっとキツかったからなのだ。ナイーヴ()な青年だったんだよオレは。それと併せ、後期のアルバムでのフェリーさんの声質が、年齢による衰えが顕著過ぎて聴いてて辛くなる、というのもあった。そんなわけだったから、このブログを書き始めて18年も経つというのに、一度もきちんとフェリーさんのことを書いたことがなかった。

しかしそんなフェリーさんの音楽を、最近突然再発見してしまい、興奮気味に全てのアルバムをCD購入してしまったのだ(初期のはレコードで持っていたが数枚は買い直していなかった。また、後期アルバムは殆ど聴いていなかった)。その切っ掛けとなったのは、発売時購入したものの面白くなくて数回しか聴かなかったアルバム『ディラネスク』(2007)だ。

理由は忘れたのだが、このアルバムを唐突に聴き直してみたら、これがもう非常に素晴らしかったのだ。「え!?なんでなんで!?なんでこのアルバムを無視していたの!?」と自分で自分に驚愕してしまったほどである。さらにやっぱりつまらなくて無視していたアルバム『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』(1999)を聴き直したら、これがまたよくって……。そこからは一気呵成、全フェリー・アルバムのCDコンプとなったわけだ。

『ディラネスク』にしろ『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』にしろ、やはり声質の衰えたヴォーカルではあるのだが、今聴くとそれがまるで気にならなかったのだ。ロックアーチストが歳をとるようにロックファンも歳をとる。歳をとり枯れたフェリーさんのヴォーカルを、枯れながらも十分に憂愁の美しさを湛えるその歌声を聴きながら、オレは同じく老境に足を踏み入れた自分自身と重ね合わせてしまったのだ。それは寂しく、侘しいものではある。だが、にもかかわらず、フェリーの歌声は、こんなにも美しい。なぜこんなことが可能なのだろう?それが、人生、ということなのだろうか。オレはフェリーさんに人生を見てしまったのだろうか。

というわけで次回後編は「ブライアン・フェリー全アルバム紹介」をお届けしますのでお楽しみに!

(続く)