■アイリッシュマン (監督:マーティン・スコセッシ 2019年アメリカ映画)
■ネットフリックス映画『アイリッシュマン』を観た
あちこちで評判になっていたネットフリックス映画(限定劇場公開もあり)『アイリッシュマン』、3時間半もあるんで毎日チビチビ観ようかと思って観始めたら、それほど期待していなかったのにも係わらずこれが結構面白くて止め時が見つからなくなり、結局二日掛かりで観終わってしまった。そして観終わった感想は「結構面白い」どころかこれは「傑作」だったじゃないか。
「それほど期待していなかった」というのはまずネトフリ映画ってェのがハリウッド有名監督や有名俳優の登用を喧伝しながら実際観て満足した作品が皆無と言っていいほど無かったこと、今更なマーティン・スコセッシによる今更なギャング映画という新鮮味の無さ、その作品というのがなんと3時間半もありやがる、といった点にあった。
マーティン・スコセッシ、有名監督ではあるがそれはオレにとっては『タクシードライバー』という10代のオレの心に最も鮮烈な印象を植え付けた伝説的傑作を監督した人、というだけでしかなかった。スコセッシ監督作でそれ以外に心に残っているのってなんだ?何作かは観てはいるけれど、せいぜい『ウルフ・オブ・ウォールストリート』ぐらいだ。そもそもスコセッシ、ちょっと過大評価され過ぎじゃないのか?
■スコセッシ監督と裏社会映画
そんなスコセッシがまたぞろギャング映画、と聞いたときは鼻白んだ。「『アイリッシュマン』を観るなら『グッド・フェローズ』で予習しましょう!」とかいうネット上の知ったかぶった声にもうんざりさせられた。そもそも『グッド・フェローズ』、たいして面白くなかった映画だった(でもなぜかブルーレイは持ってるんだよな)。
とはいえ、スコセッシはそんなに沢山ギャング映画を製作している人ではない。「裏社会」を描いた作品が目立つのでそういうイメージが付いたのだろう。だがむしろ近年まで様々なジャンルに果敢に挑戦してる監督だ。そんなスコセッシがまたぞろ古巣ともいえるギャング/裏社会映画を製作した、というから「ネトフリ映画だから気ィ抜いて作ったんだろな」と思ったし、デ・ニーロらスコセッシゆかりの有名俳優集結、ってのも「同窓会かよ」と思えてしまったのだ*1。
(なんかここまで書いてて思ったが、オレって結構性格悪いのかもしれない)
ところがだ。ここまでネガティヴなことをグダグダとほざきながら観始めたのにも係わらず、物語が始まって数分で、すっかり作品世界に引き込まれてしまった。お話はよくあるようなギャング・ストーリーで、別段特別に興味をそそるものがあるわけでもない。しかし、なぜか馴染む。安心して観ていられて、引っ掛かりが無い。語り口調にスムーズにノレる。いわゆる映画手法やらなんやらのことはオレは理解が極めて乏しいが、これが重鎮熟練映画監督の巧みの技、というやつなのか。
■日常と化したアンモラル
物語はアメリカ50年代から70年代を舞台にした、"アイリッシュマン"と呼ばれたある男とアメリカ裏社会との闇を描くものだ。"アイリッシュマン"ことフランク(ロバート・デ・ニーロ)は殺人を含む裏社会の汚れ仕事を請け負う男だが、カタイ仕事ぶりが買われてマフィアのボス、ラッセル(ジョー・ペシ)に引き立てられる。やがてフランクは「全米トラック運転手組合委員長」として裏で不正三昧を働いていたジミー・ホッファ(アル・パチーノ)のボディガードを勤め、家族ぐるみの親密な付き合いをするようになる。しかし我の強いホッファは次第に裏社会の鼻に付くようになり、フランクはホッファとの友情と組織の義務との間で引き裂かれてゆくのだ。
まあなにしろギャング・ストーリーなので全編においてキナ臭い雰囲気が充満しまくっている。殺しも破壊もあちこちで行われる。しかしこの作品では主人公フランクの適度にヨレたおっさん振りが物語に奇妙な弛緩と安定感を醸し出す事になる。フランクは要するに殺し屋なのだが、ギチギチにイキッた頭のおかしい殺人者なのではなく、その辺の勤め人と変わらない仕事に律儀で忠実で時にくよくよする男として描かれるのだ。しかしよく考えるなら殺し屋が普通人のように描かれ、観る者も普通に共感させられてしまうという部分で実は異常な事だ。
フランクに限らずマフィア関係者やホッファもそうなのだが、「一切のモラルの欠如」以外は普通の人間である、という、実は普通でもなんでもない部分を普通に描いてしまう部分がこの作品のポイントなのだ。モラルの欠如した連中が大手を振って面白おかしくお天道様の下を歩いている、その異様さ、異質さ、それは『グッド・フェローズ』や『ウルフ・オブ・ウォールストリート』に通じるスコセッシのテーマのひとつなのだろう。
■無常の世界
こうして暴力と権力への強烈な志向が毒ガスのように充満するアンモラルな世界が3時間半、他愛のない日常風景のようにダラダラと語られることになる。しかしそれは実は「ダラダラ」なのではなく、たとえどんな日常風景の中にあっても、フランクがどんなに情けない顔をして可笑し味を漂わせていたとしても、そこには常に通奏低音のように暴力の緊張が存在しそれは決して途切れることは無い。この「ダラダラ」な日常の最中にある微妙な異物感、不安感、これを体験させるために3時間半は逆に絶妙だった。
この物語は病院に入院する老境のフランクが車椅子から過去を回想する形で描かれる。過去は既に過ぎ去り年老いたフランクに待つのはあとは”死”のみだ。物語内における様々な登場人物も登場した段階で「最期にどういう死に方をしたか」のキャプションが付けられ、そしてその殆どがろくな死に方をしていない。どのように相手を出し抜き権力の栄華を誇ろうと、そんなものとは関係なく”死”だけは確実に訪れる。こうしてフランク、ホッファ、マフィア連中らの生み出すドラマは強烈なカタルシスを生むことなく虚無のドツボの中に消えてゆく。それは死にゆくジジイどもの挽歌であり、つわものどもが夢の跡という事だ。この無常観こそが映画『アイリッシュマン』のテーマだったのかもしれない。
この映画がホッファ失踪事件が核となる実話ということを途中で知り驚いたが(原作あり)、舞台となるアメリカ50〜70年代の政治背景がそこここで影響する部分や(ケネディやニクソンへの言及)、服飾等のレトロな文化が執拗に再現されているのにも見入ってしまった。登場人物たちがシーンが変わるごとに違う洋服を着て出てくるのだ。主役俳優の顔を若くするCGは、モーションキャプチャーではなく撮影時12台の特殊カメラを使うことで可能としたのだという。技術的な部分で冒険する部分にもスコセッシらしさを感じた。3時間半の尺は原作を活かし切る為に必要だったろうが通常の劇場公開にはあまりそぐわないだろうし、ネトフリ出資のTV/劇場同時公開は的を得ていたと思う。
*1:実際はデ・ニーロからスコセッシに企画が持ち込まれ、劇場映画作品として製作を進行させようとしていたが、予算の面で映画会社と折り合わず、断念しかけていたところをネトフリから出資が持ち掛けられて完成に漕ぎ着けたのだという。決して気ィ抜いて作った作品ではないのだ。配役に関しても当初は有名俳優を使うことを考えていなかったらしい。Netflixが支えた『アイリッシュマン』と、マーティン・スコセッシの「理想」とのギャップ:映画レヴュー|WIRED.jp