2017年を振り返るならまず引越しのことを書かねばならない

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今年2月に引っ越しをしたのだ

毎年年末には1年の総括をブログに書き出していたが(そしてそれらはたいていたいしたことのないことばかりだったが)、今年2017年に関しては、なによりも2月に決行した引越しのことを書かねばならないだろう(しかし引越しとは”決行”なのか?)。これを書かなければ今年を語ったことにならないからだ。

いや、引越しだなんて、たいていの方なら一つや二つ、あるいは三つも四つも経験されているだろうし、確かに大変だとはいえ、そんな大仰に騒ぐことじゃないんではないかと思われるかもしれない。だが、オレの場合はちょっと事情が違う。オレの今回の引越しというのは、以前のアパートに住み始めて以来実に37年振りの事だったからである。そしてその理由は「立ち退き」というものだったのだ。

大東京大四畳半生活

オレが上京したのは高校卒業後の18のときで、その時は新聞奨学制度で美術の専門学校に通いながら住み込みの新聞配達生活をしていた。最初は東京都江東区門前仲町。しかしここで店主と意見が対立して東京都葛飾区の新小岩に異動になる。オレはこの新小岩で精神的に病んでしまい、新聞配達も学校も辞めることになる。この間たった7ヶ月。その後渋谷区恵比寿に住む伯父のアパートに居候になり、その伯父の紹介で品川区のとある町のアパートに住むこととなった。つまりオレは上京して1年にも満たないうちに4回住処を変えていたのだ。

こうしてオレが一人住まいを始めたアパートは風呂なしトイレ共同の四畳半だった。今では骨董品めいているが当時(つまり40年近く前)には割りと当たり前によくあった。そして、恥ずかしながらここで白状するが、オレはこの風呂なしトイレ共同の四畳半に37年間、55歳のいい年したおっさんになるまで住んでいたのである。

何故か、というとこれはもう面倒だったから、というしかない。それと最初は、上京の理由だった就学が破綻した以上、とりあえず仮の宿としてここに住んでいるだけなのだ、という意識があった。東京に住む理由など何一つない以上、いつか実家に帰ろうと思っていたのだ。ところが性格の物ぐささと横着さが祟り(まあ両方同じ意味だが)、ずるずると驚異的な年月をここで過ごすことになったというわけだ。

その間中小企業に就職もし(29歳のときだ。それまでバイト生活だった。30になってまだバイトだとさすがに拙いだろうと就職した)、薄給ながらきちんとした固定給も貰い、微々たる額とはいえ貯蓄も試みたが、そうして生活がなんとなく安定してすら風呂なしトイレ共同の四畳半を引っ越すことをしなかった。さっき面倒だった、とは書いたが、その核心にあったのはいくら惨め臭かろうと生活を変えるのが怖かった、ということがあった。変えないことにより、望んでいなかった人生を歩んでしまうことになった自分の現実を直視するのを避け続けていたのだ。そしてその精神的逃避は、ひょっとしたらまだまだ数十年続いていたかもしれない。大家からアパートの立ち退きを要請されるまでは。

それは去年の暮れの事であった

立ち退きの理由、それはごく単純に、アパートの老朽化である。誰もが知るあの忌まわしい東北大震災の際、関東もまた甚大な震度の地震に見舞われたが、この時木造モルタル築56年の古アパートは歪んでしまい、あちこちで漏水やガス漏れ、床の陥没などが発見されたのだという。とはいえこれは立ち退き要請時に大家から聞いた話で、2階にあるオレの部屋には特にそれらしい影響は無かった。大家は1階の部屋に鉄骨の梁を張るなどして凌ごうとしたが、やはりガス水道の配管はいかんともしがたく、そもそも建物自体老朽化していたこともあって取り壊しを決め、それによりオレに立ち退きが要請されたのだ。

そのことが告げられたのが去年の暮れ。3月までに立ち退いて欲しいという。当然吃驚はしたが、それよりも、やっとここから引っ越す理由ができたな、とオレは思った。事情も事情であり、大家も大変恐縮していて、その時住んでいた部屋と同程度の部屋を見つけて斡旋もしてくれていた。ただまあ、なにしろ同程度(いや、大家も気を使ってくれたのだ)、その物件も多少広くはあったとはいえ風呂無し木造アパートであり、折角やっと引っ越すのだからと自分で人並みのアパートを探すことにして、大家の探してきた物件はお断りさせてもらった(ちなみに引越し時、大家は慰謝として10万円ほどの現金をよこしてくれて、これはなにかと入用だったので助かった)。

年の瀬に部屋探しなどしたくもなかったので、実際に行動を起こしたのは年が明け今年に入ってからだった。オレは引越し決行を2月に決めた。とはいえ、自分に住みたい町だの場所などはない。だからその時住んでいた近所で探してみた。実は旧アパートは通勤の便がよく、引っ越すことでその利便性を失いたくないというのがあった。数日間さらっと探し、これだと思えた2DKの物件があったので不動産屋に連絡を取り、部屋を見せてもらって2,3日後にそこに決定することを不動産屋に告げた。決めるのは早かったのである。家賃も一般的に言われている自分の月給の3割前後。最適の物件とはいえないにしても自分の給料ではこんなものだろうと妥協した。

段ボール箱40個だった

その後の引越し準備のどたばたは、まあ誰でも経験のあることだろうから、特に書かない。ただ、四畳半に住んでいたくせに、本とCDとDVDの数が半端ではなかった。相当捨てたにもかかわらず、それでも段ボール箱40個となり、さらにまだまだ増え続けた。それまで使っていた古びた家電製品や家財道具も殆ど捨てて(たいした量ではなかったが)、転居後にその殆どを買い直した。全部新しくして一からスタートしたかったのだ。引越しの準備から終了まではネットで調べるとたいていのことが載っていたのでそれほど苦労はなかった。

ただ、たったひとつだけ納得が出来なかったのはネットの移転・開通の遅さである。電気ガス水道転居届けなどは案外手続きが簡単だったが、それらを簡単にしてくれた(または簡単に情報を引き出せた)ネットだけが、申込みから開通までなんと50日掛かったのだ。先端である筈の業種が一番鈍重だったというのが皮肉に思えたが、ネット漬けの日々を送っていた者にとってスマホでしかネットを覗けない50日間はさすがにうんざりさせられた(後半慣れたが)。

そして新居だった

引越しをしたのが2月11日土曜日。そしてそれから数ヶ月間、週末になる毎に生活で使う細かな雑貨を買い揃え続け、ネットで(スマホで)家具を注文し、それらを組み立て続けた。慣れない大工仕事に肩を痛め夏になるまで肩が上がらなかった。そんな毎日が終わってやっと新居に馴染んでみると、これがもう、ひたすら居心地がいい。こんなに居心地がいいのならなぜ早く引っ越さなかったのかと思ったほどだ。なにか人生を無駄にしてしまったとすら思えた。まあ、オレの人生というのは、大概こんな具合に、無駄だらけではあるのだが。

これら引越しにまつわるあらゆる事は確かに大変ではあったが、最初に書いたように、社会で暮らす多くの方にとって、それらは粛々と行われるだけのことであって、大騒ぎすることでもないのだろう。ただ、50を過ぎてなお自分の現実を御座なりにしモラトリアムめいた生活を続けていたダメ人間のオレには一大事ではあったのだ。だが、オレはダメ人間ではあるが、それでも、やることはやったと思う。そういや引っ越して2ヶ月を過ぎた頃に大阪に住む長年付き合いのあるネット友達が東京に出張で来た際、家に泊めるなどしてもてなしたことがある。オレなりに頑張って整えた部屋に人を招くのはちょっと誇らしかった。その時オレは、そんなに自分はダメでもないな、となんとなく思えたのだ。

これらがオレの、今年の2月を前後して行われた引越しのあらましである。長々と書いたが、なにしろ今年は、この引越しが最大の出来事だった。そしてやっと引っ越したこの部屋で、来年一年目を迎えるというわけだ。来年も、そしてその後の年も、いい年にしてゆきたい。

というわけで皆さん今年もありがとうございました。来年もよろしくお願いします。