駆け落ち/失踪 (5回連続・第3回)

ドアの前に立っていたのは友人Nの弟だった。彼もまた実家から上京してきており、大学卒業後一人暮らしをしながら勤めに出ていた。「兄貴いますか?」とNの弟。返事をしようとしたオレの肩越しに弟が来たことを知ったNが顔を出し、「やあ、Y。」と彼の弟の名前を読んだ。その時だった、兄の姿を認めた弟Yは、「兄貴!お前こんな所で何やってるんだよお!」と突然怒鳴り声を上げ、いきなりオレの後ろのNに掴みかかって行ったのである。

「お前よお!親父やお袋や会社の人間がどれだけ心配してたのか判ってるのかよ!いきなり寮からいなくなって音沙汰無しで、失踪届けが出てたんだからな!」Nを床に押し倒し馬乗りになって弟Yが喚いた。「そうしたらこんなところで虫けらみたいな女と隠れてたのかよ!」オレは慌てて二人を引き離しに入った。「気持ちはわかるが止めてくれ。ここはオレの部屋だ。」いまだ肩で息をしている弟Yをなだめ、うな垂れているNと共に床に座らせた。

「フモさんごめん。でも行方が判らないから死んでるのかとさえ思ってたんだよ。本当に皆心配してたんだ。」と弟Y。それはオレにも責任はあった。Nに家族には連絡しないでくれと言われ、こんな大事になるとは想像すらせす、Nの言う通りにしていたのだ。ただ理由はどうあれ、弟Yがフィリピン女性をフィリピン人で水商売をやっていたと言うだけで「虫けら」呼ばわりしたのは悲しかった。

「いくら兄の友人とはいえフモさんの部屋に何時までも兄を厄介にさせておくわけにはいかない。取り合えず家族や会社には安否を知らせ、兄は自分のアパートに来て貰う。女のことは面倒見切れない。」と弟Y。「…嫌だよ、彼女とは別れられないよ。」と弱弱しく呟くN。「彼女は可哀想な立場の女性なんだ。彼女だって行き場所が無いんだよ。」食い下がる兄Nに弟Yは暫く考え込み、あまり乗り気で無さそうに「じゃあしょうがないから女もアパートに来て貰う。そして今後どうするのか家族として話し合う。」と言った。オレが引き止める理由は何も無かった。

それで話は決まったらしく、Nとフィリピン女性は身の回りのものを持ってきていた鞄に詰めると、弟Yと共に慌しくオレの部屋から退出した。「悪かったな。今までありがとう。」オレに礼をするNと、無言で会釈するフィリピン女性。そして三人は去った。しかしやっと部屋で一人になり、安心するのかと思えたのに、一週間分のあの二人の気配と、今日あったドタバタの、澱のように澱んだ怒気がいまだに部屋の中に漂っていて、奇妙にザワザワと気分が粟立ち、どうにも落ち着く事ができなかった。

でもそんな気分も二、三日もすれば収まる。オレはどうにも拍子抜けしたまま、それでもいつもの日常に少しづつ戻りつつあった。しかし、話はこれで終わらなかったのである。

彼らが去ってから数日後。オレの部屋を訪ねる人が。そして。ドアを開けると、またNとフィリピン女性の二人が立っていたのである。物凄く嫌な予感がちりちりと頭の隅で燻ぶっているのを感じながら、オレはNにどうしたのか尋ねた。「フモ、すまん、やっぱり弟のアパートは居辛くて…。また二、三日泊めてくれないかな…。」

訊くと彼の弟Yのフィリピン女性に対する扱いが酷いのだという。相当に嫌っているらしいのだ。「それで彼女が可哀想になっちゃって、また出てきちゃったんだ。」さすがのオレも既に呆れていた。結局何も何一つも解決しないまま振り出しに戻し、全く同じことを繰り返そうとしているのだ。友人の頭の中にあることはただ一つ、彼女と一緒にいることだけである。しかし一緒にいる為の現実的な方法とか策とかを見つけるわけでも探すわけでもなく、ただただ自分の妄執の虜になっているだけではないか。オレは何も言う事ができず、だからと言って彼をどうすればいいのか思いつかなかった。しかし惨めそうにうな垂れる彼を追い返すことも出来ず、例によって追い帰されても行き場所が無い、と言う彼らをまた泊める事にしたのである。

(続く)