僕と怪獣と屋上で

母の葬儀の後、弟と一緒に遺品整理をしていた。2015年の冬の事だ。その時出てきたのがこれらの写真だった。子供時代のオレが、着ぐるみの怪獣たちと一緒に映っている写真だ。中央の、熊の絵の鉢巻きをして、不安そうな顔で明後日の方角を観ているのが子供の頃のオレだ。子供の頃、とは言っても、幾つぐらいで撮った写真なのか正確な所は憶えていない。4歳なのか、5歳なのか、6歳なのか、はたまた7歳なのか。まあ、その位の年の写真という事だ。

場所は、当時地元で一番大きなデパート、その名も「高林デパート」の屋上だ。ちなみに「地元」というのはオレの生まれ育った北海道の、稚内という街だ。知ってる方も多いと思うが、稚内というのは日本の一番北の街だ。海の向こうにはロシア領のサハリンが見える。要するに限りなくロシアに近い土地なのだ。サハリンは第2次世界大戦前まではその半分が日本の領土で、樺太と呼ばれていた。それが終戦間際に当時のソ連が侵攻し占領し自国の領土とした。ロシアに限りなく近い土地である稚内には自衛隊基地があり、ロシアへの軍事的警戒のためだろう、レーダーサイトまである。オレが子供の頃まではアメリカ軍も駐留していた。

 

多分この「高林デパート」の屋上で、子供たちを集めて怪獣の着ぐるみショーとかいうのをやっていたのだろう。地元で一番大きなデパートとは言っても、なにしろ北海道の僻地にあるデパートなので、4階建てぐらいの建物だったと思う。しかし当時地元では、4階建て以上の建物というのは、このデパートと、あと市役所と市立病院ぐらいだったのではないか。確かエレベーターが設置された商業施設もここが一番早かっただろう。それだけまあ、地元では一番のデパートだった。多分、僻地とはいえ、当時の高度経済成長で、地元が活気づいていた頃でもあったのだろう。

そして僻地に住む小さな子供にとっては、このデパートに行く事は大きな楽しみの一つだった。それはまず、玩具コーナーの充実だ。そして最上階にある、レストランの充実だ。子供の頃は家族でこのレストランに行って、ラーメンとソフトクリームを食べるのが一番の楽しみだった。家族でデパートに出掛けるというのは、それはある種、田舎暮らししか知らない人間にとっての、豊かな生活のステータスだった。そんな高林デパートではあったが、オレが成人し地元を離れた後に倒産してしまった。話では店員に予告なくデパートを閉めたのらしく、何も知らされず出勤した店員たちがシャッターの開かない店の前でパニックになっていたという。

出てきた怪獣の着ぐるみの名は、円谷特撮TV『ウルトラマン』に登場したネロンガと、 ギャンゴと、そしてこれは怪獣ではないのだが、『キャプテン・ウルトラ』に登場したハックという名のロボットの3体だった。オレはなにしろリアルタイムで『ウルトラマン』をTVで観ていた子供で、そしてこの怪獣というヤツが大好きだった。あまりに怪獣が好き過ぎて、小学校に上がる前に「怪獣」という漢字を覚え、それをノートに落書きしていたぐらいだった。だから当時も、「そんな怪獣に会える!」と喜び勇んでいった筈なのだが、実際出会った怪獣の着ぐるみが怖くなり、泣き出してしまったのだという。写真をよく見ると、確かにオレの顔は、今にも泣き出しそうな、微妙に歪んだ表情を浮かべている。

しかしオレは実ははっきりと覚えているのだが、「怖い」という感情とはちょっと違っていた。オレがそこで出会った怪獣の着ぐるみは、すっかりヨレヨレになり、ブカブカな上に皺だらけで、あちこちには修繕した跡まであり、TVで観た彼らとは何か別のものに成り下がっていたのだ。おまけに、着ぐるみの素材なのだろう、ウレタンか何かの、化学製品の臭いがとてつもなくきつく、その臭いに、気持ち悪くなってしまったのだ。そんな「気持ちの悪い何か」が、オレの傍によってきて、頭を撫でたり肩を抱いてきたりしてきたものだから、オレは耐えられなくなってしまったのだ。

ところで、この写真を撮ったのは、オレの母方の叔父になる人だった。確か当時はまだ二十歳そこそこだったのではないかと思う。叔父は、母の実家である函館のさらに奥地の田舎に住んでいたが、あまりの田舎さに嫌気が差し、そこよりは多少都会ではある稚内に住む姉(=オレの母)を頼ってやってきていたのだ。そしてその叔父はまだ子供のオレを大いに可愛がってくれていた。映画や漫画の好きだった叔父は、このオレをいつも映画館に連れ出してくれたし、漫画雑誌を買い与えてくれていた。絵をかくのも好きで、部屋でいつも訳の分からない絵を描いていた(正確には、障子に書いていた)。オレの今の漫画や映画の趣味の幾ばくかは、この人の影響が大きいだろう。

叔父は中卒で、手に職を着けようと理容師の見習いをしていたのだが、実験台としてよくオレの髪を切っていて、そしていつも虎刈りにされていた。「虎刈り」というのは虎の模様の様に髪の毛の切り方がまばらで不揃いになっている事を言う。オレはこの叔父の務める床屋にもよく通っていて、ここで終始漫画雑誌に読み耽っていた。

その叔父が孤独死していたのを知らされたのは去年の事だった。叔父は数十年前から東京に移り住んでおり、オレが上京した時もとても世話になっていた。だがこの頃から叔父には人嫌いの性向が出始め、その後の引っ越し先もオレにも血縁の者にも知らせず、叔父の母(=オレの婆ちゃん)が亡くなった時も、誰一人として連絡先が分からず結局葬式に来なかったほどだった。上京してから会った叔父は、いつもどこかで学歴の低さと、学歴が低いばかりにあまんじなければならない職業の安い賃金に溜息をもらしていた。コツコツ貯めた金でなんとか念願だったバーを開店したが、バブル経済時期だったこともあって最初はそこそこに流行ったものの、その後客足が途絶えいつの間にか引き払ってしまっていた。そしてその後叔父は行方不明になっていたのだ。

孤独死の知らせは警察から母方の伯父に行き、DNA鑑定の依頼がまず最初だった。死の直前まで伯父がどこでどんな暮らしをしていたのかオレは知らない。そしてオレは、この怪獣たちとオレの写っている写真を見ながら思ったのだ。この写真を持っていた母も、この写真を撮った叔父ももうこの世におらず、であるなら、この写真の情景を記憶しているのは、この怪獣たちを記憶しているのは、もうこの世でオレだけなのではないかと。

いや、確かにこのデパートの屋上にやってきていた何人もの子供や親たちの中には、まだ覚えている人もいるのかもしれない。しかしオレが言いたいのはそうじゃなくて、このオレと情報を共有していた人間が誰もいなくなるということなのだ。年を取るというのはこういうことでもあるのか、と思ったのだ。高林デパートも、高林デパートの屋上の怪獣も、オレがそこで泣いたことも、そこでオレの写真を撮った叔父も、彼がどんな人間だったかも、知っている人間が誰もいなくなってしまう。確かに時の流れというのはそういうものなのかもしれない。他愛の無いあれやこれやの記憶など、忘れ去られるのが常であろうし、覚えていたからと言って何の役に立つというものでも無い。ただ、それがゼロになってしまう、虚無に還ってしまうというのが、なんだか侘びしく感じて仕方ないのだ。

 だから、オレは思ったのだ。こうしてブログにして、あの当時の事を何がしかの文章にしたため残しておくのなら、それを読んでくれる人が何人かはいてくれるだろうと。そして数分でも、数時間でも、その人の記憶の中で、これらの出来事が生き返るのだろうと。あの日、オレと怪獣はデパートの屋上にいた。天気のいい日だった。デパートのラーメンとソフトクリームは絶品だった。あの頃、家族そろってデパートに行くのがとても楽しみだった。今はいない父親がいて、母親もいた。多分オレは、幸福だった。そんな時代が、オレにもあったんだよ。