魔障ヶ岳〜妖怪ハンター / 諸星大二郎

稗田のモノ語り 魔障ヶ岳 妖怪ハンター (KCデラックス)

稗田のモノ語り 魔障ヶ岳 妖怪ハンター (KCデラックス)

山伏たちも恐れるという山深き難所に存在する”魔障ヶ岳”。考古学者・稗田らは奇妙な伝説の存在するその地へと調査に赴くが、数々の怪異が彼らを待っていた。そして数ヵ月後…。
妖怪ハンター稗田礼二郎のフィールドワーク”と名づけられ、諸星デビュー間もない頃から続けられている連作短編シリーズの最新作。今回も凄いなあ。考古学、民俗学のキーワードを組み合わせ、パズルを組み立てるように作られた伝奇フィクションは数あるけれど、それら他の作家と諸星が決定的に違うのは、ひとつの仮定としての歴史を生み出すことが目的なのではなく、古代人たちが"自然"や"生きることそのもの"に対して持っていた畏敬や恐怖を、そのまま現代に生きる人間たちの目の前に表出させることができることだろう。
こと諸星についてはモザイクのように組み立てられた構築的な物語と云うよりは、彼自身が一人のシャーマンとなって古代人たちの感情を呼び覚ますかのごとき物語を描いているような気がする。怪異や奇談は、現代のような科学の存在しない古代、近代以前では、まさしく、現実に”ある”ことだったのだ。そしてそれら不安や恐怖がありえるはずの無いもうひとつの世界、”異界”を彼らに見せていたのだろう。この"異界"を、諸星は全ての理/ことわりがあまりにもあからさまになってしまった現代人に強烈な力技でまざまざと見せ付ける。それも諸星独特のうねうねとした境界線のはっきりしない、それ自体が逢魔ヶ時のような仄暗い妖しい絵で。
物語では魔障ヶ岳の形の無い”モノ”が住まうという洞穴で、その”モノ”に望まれるまま名前を付けてしまった者たちの数奇な運命と陰惨な結末が語られる。
「名付ける」、ということはひとつの「呪い」である、ということをどこかの本で読んだことがある。呪術とは、オカルティックで非科学的な技術なのではなく、この「相手に強迫観念を植え付ける」テクニックなのだ。そしてその為のメソッドが、得体の知れないアイテムであったり、言葉による呪縛であったりするのだ。
名前の存在しない得体の知れない”モノ”にそれぞれの人間たちが名前をつけたとき、それぞれの人間たちの心の裡に隠されていた畏れや欲望が形を成す。それは自らに掛けた「呪い」だ。つまり”モノ”とは、”存在する”ものなのではなく、”存在させられた”ものなのだ。そして怪異がこのように人の心の中に”起こる”ものならば、科学の方便があろうとなかろうと、怪異はそこに”起こる”のである。
連綿と続いてきた人類の歴史そのものが育んできたもうひとつの”裏”の歴史。それは原始の恐怖と畏怖に満ちた集合的無意識の生み出す異界の闇。諸星は作品を通して、文明が科学と電気エネルギーで追いやってしまったそれら”闇”の中に蠢く”何か”に、もう一度”名付ける”という呪法をしているような気がしてならない。
作品自体もこれまで以上に練り上げられたプロット。十分に知的でありながら強く感情とイメージを喚起するストーリー。非常に高い完成度だと思う。