ポゼッション (監督:アンディ・ズラウスキー 1981年フランス/西ドイツ映画)
狂気のオンパレード映画『ポゼッション』
怒号飛び交う泥沼の不倫騒動の果てに描かれる破滅的な狂気。そしてその向こうに待つ血と死と異形との邂逅。イザベル・アジャーニ主演、アンディ・ズラウスキー監督により1981年に公開された映画『ポゼッション』は名状し難い異様さに包まれた愛のディストピア映画である。というか……もう想像の斜め上を行くバイオレンス血塗れ化け物ホラーだったよ!オレは一体何を観せられたんだ……。今回はネタバレありで書くので観ていない方は要注意。
なにしろイザベル・アジャーニの限界突破した狂気演技とアンディ・ズラウスキーのひたすら暴走する狂気演出により狂気が倍々に膨れ上がり、さらにもう一人の主演俳優サム・ニールはジョン・カーペンター映画『マウス・オブ・マッドネス』に出演したマッドネスに深い縁のある俳優という事でさらに狂気度は加速、それにより狂気のオンパレード、狂気の総合商社、狂気の満漢全席みたいな狂気映画となっていた。
《物語:前半》出張から帰ってきた主人公マルクは自分のいない間に妻アンナが不倫していたことを知り、徹底的に問い詰めた果てにアンナは不倫相手ハインリッヒの家に逃亡。アンナはたまに息子の様子を見に家に戻るがこれをマルクがねちっこくねちっこく責め苛み、一方アンナも負けじとばかりにヒステリーで返して大暴れ。さらにマルクはハインリッヒの家に押しかけ逆に返り討ちに遭い、もう身も心もズタボロ状態。そこでマルクは探偵を雇いアンナの行動を調査させるが……
決して交わることの無いディスコミュニケーション状態
ヨーロッパ白人のやることなので自分の過誤は絶対認めない。謝ったら負け、とにかく自分の言いたいことをとことん押し通すという文化の賜物、そんなもんだからお互いの言い分は永遠に平行線で事態の解決なんてあり得ない。ことそれが「元が愛であったもの」であったなら怒りも憎しみも倍増、終わらない地獄が口を開けるだけだ。この決して交わることの無いディスコミュニケーション状態がまず作品の基調となる。
さて後半、ここからが異様、というか異常。
《物語:後半》アンナが一人で住むアパートに入り込んだ探偵はそこで異様なものを見る。なんとそれは血塗れの蠢く肉塊だった。驚愕する探偵をアンナはサクッとぶっ殺す。アンナはその探偵を探しに来た別の探偵もぶっ殺し、その間に肉塊はどんどん人間の形になってゆく。一方傷心のマルクは息子の女教師と出会うがこれがアンナそっくり。そっくりだったんでねんごろとなり、傷心も癒されてしまう。心に平穏の戻ったマルクは本当のアンナともよりが戻るが、そのアンナが肉塊とベッドで愛しあっている姿を目撃してしまう。そしてあれこれあった後、肉塊はマルクの姿へと成長しているのだ!?
……。もう滅茶苦茶である。訳が分からない。不倫騒動映画と思っていたものがいきなりのホラー展開なのである。観ていてもう頭真っ白、宇宙猫状態である。いったいなんなんだ「女房そっくりの女の登場(そして寝ちゃう)」って。なんなんだ「蠢く血塗れの肉塊」って。で、なんなんだ「肉塊が成長したらもう一人の主人公だった」って。でもよく観るならこの物語、あれこれと暗喩が張り巡らしてあって、それを説明なしに映像として描いたのがこれらシーンだと思うのだ。ちょっと解題してみよう。
あなたがあなたでなければ最高に愛せるのに
先ほど書いたようにこの映画は男女のディスコミュニケーションが基調となった作品だ。話によると背景としてズラウスキー監督の離婚騒動があったのだとか。まずここでだいたいネタが分かってくる。この映画、ズラウスキー監督の女性不信の物語なのだ。夫マルクにとって妻アンナの言動も行動も全く訳が分からない。そしてアンナは狂人のように描かれる。それはつまり「女の言ってることもやってることもまるで分らん!あいつらみんなキチガイだ!」という監督の心の叫びなのだ。
不貞の女アンナとアンナそっくりの貞淑な女教師が登場するがこれは現実と願望ということだ。夫は妻に対し昼の貞淑さと夜の淫らさを求める、なんて俗に言われるが、これは男性にとっての女性への二律背反な願望だ。しかし二律背反な願望を持ちながら、それを「女の二面性」と取るのは男性側の勝手な思い込みである。当の女性にとっては決して矛盾しない一個のパーソナリティーでしかない。それが男性には理解できないだけだ。理解できないくせにガタガタ言うから女はブチ切れる。そして男と女は永遠の平行線に置かれてしまう。
そしてアンナも、夫マルクそっくりの別のマルクを作り上げる。それはアンナにとっての理想の夫の創作だ。つまりマルクとアンナはそれぞれにお互いの似姿を作り上げそこに真実の愛の成就を見い出そうとする。これは「あなたがあなたでなければ最高に愛せるのに」という反語めいた存在であり、即ち現実の相手への全き絶望を描いているという事なのだ。そして映画で描かれているベルリンの壁は男女の断絶のメタファー。これはなんと寂しく悲しい物語なのだろう。クローネンバーグがとことんグロテスクに男女の骨肉の争いを描いたらこうなるだろう、という作品だった。