イースタン・プロミス (監督:デヴィッド・クローネンバーグ 2007年イギリス・カナダ映画)

イースタン・プロミス

裏通りの床屋で喉を掻き切られる男。裸足でドラッグストアに迷い込み、「助けて」と呟くと下腹部から血を流して倒れる少女。映画『イースタン・プロミス』は冒頭から不穏な空気を孕んで進んでゆく。少女は病院に運ばれるが出産した後に死亡。産婦人科医アンナ(ナオミ・ワッツ)は、少女の残した日記をもとに家族を探そうとするが、その影にロンドンの闇の奥でうごめくロシアン・マフィアの存在があることを知らなかった…。

ホラー映画の鬼才、デヴィッド・クローネンバーグが『ヒストリー・オブ・バイオレンス』に続き、ヴィゴ・モーテンセンを主役にして製作したバイオレンス・ドラマ。ちなみにタイトルの『イースタン・プロミス』とは「東欧組織による人身売買契約」という意味だという。

■クローネンバーグとバイオレンス・ドラマ

ヒストリー・オブ・バイオレンス』がクローネンバーグ流バイオレンス・ドラマのスタンダード版だとすれば、『イースタン・プロミス』はそのデラックス版と言ってもいいかもしれない。クローネンバーグはこれまで、”観念”が具体的な形や生命を得て現実世界を侵蝕し崩壊させていく様を映画で描いてきた。『スキャナーズ』の超能力はまさしく観念の具現化であるし、『ザ・ブルード〜怒りのメタファー』は”怒り”が怪物の形となり、『ヴィデオドローム』ではビデオ世界の暴力が現実を蹂躙し、『裸のランチ』では薬物中毒の幻想が現実とすりかわり、『イグジステンス』ではゲーム世界が現実を侵略する。

しかし『ヒストリー・オブ・バイオレンス』でクローネンバーグは、これまで常套手段としてきたホラー的な異形の視覚化を止める。その代わり人間がもとから持ちえている”暴力”というものを、”ごく普通の男の皮膚の下に蠢く血に飢えた残虐な怪物”として描ききった。こうして、ホラー映画の文法で撮られた非ホラー映画『ヒストリー・オブ・バイオレンス』は、異様な緊張感と狂気を孕んだバイオレンス映画として結実した。そしてこのテーマを継承した今作『イースタン・プロミス』では、一般社会と表裏一体に存在する、血で血を洗う犯罪社会が舞台の中心となる。即ち、ここで再び描かれる”血に飢えた残虐な怪物”とは、前作より一歩進んで、犯罪組織という一つの集団であり社会であるのだ。

■二つの社会

一般社会と犯罪社会、この二つを橋渡しし、産婦人科医アンナに血と死に満ちた闇の世界を垣間見せるのが、ヴィゴ・モーテンセン演じる、マフィアの”仕事人”ニコライ。なにしろこのヴィゴ・モーテンセンの演技が素晴らしい。鋼の面のような無表情さと爬虫類のような目つき。耳障りな声と酷薄な口調。一挙手一投足に滲み出る獣じみた暴力の匂い。ただそこに佇んでいてさえ強力な負の磁場を発しているその様は、リアリティある圧倒的な存在感を感じさせる。しかしそれと同時に、仲間であるはずのマフィアたちからちょっと浮いたような、奇妙な孤独さと、謎めいた雰囲気も兼ね備えている男なのだ。

そのニコライと対照的な存在として描かれるのが産婦人科医アンナ。人の生の誕生に立会い、死に瀕した者に救いの手を差し伸べ、死した者の残した思いにこだわり続ける女性、それが彼女だ。当然彼女は魑魅魍魎の如きマフィア達とは真逆の、市井の一般市民として描かれる。ニコライの持つ粘つく様な死の臭い、そして、暴力と破壊がもたらす虚無の対極にあるもの。さらに彼女は女性である。一人の女性として、”女性性”という男には持ち得ない感受性を持ったものとして、冷徹で功利的な男社会とは別の位置に存在する者として、彼女は立ち現れる。実はこの物語を有り体なマフィア映画にしていないのは、「女」である彼女の存在があるからこそなのだ。一般社会と犯罪社会、二つの社会を描いたこの物語は、実は、男社会と女との、その隔たりを描いた作品でもあったのではないか。

■赦しと肯定

例えば、前作『ヒストリー・オブ・バイオレンス』が、暴力と狂気を描きながらも、その根底に”家族の絆”というテーマを持ってくることにより、決して単なる暴力のカタルシスのみを取り上げたバイオレンス映画にはなっていなかったように、アンナの女としての立場が、女という存在のあり方が、この血生臭い映画に救いを与えているのだ。勿論映画の殆どは、過剰な血糊と過激な暴力のグロテスクさがアラベスクを織り成す、いつものクローネンバーグ節が画面を覆っているが、映画のラストはこれまでのような虚無と荒廃の陥落へと堕ちることなく、アンナの視点を通して生の肯定と赦しを描いているところに、新たなクローネンバーグの作風が見え隠れしているような気がする。