追悼 ジョン・ル・カレ/遺作となった『スパイはいまも謀略の地に』を読んだ

スパイはいまも謀略の地に/ジョン・ル・カレ(著)、加賀山 卓朗(訳)

スパイはいまも謀略の地に

追悼 ジョン・ル・カレ 

イギリスのスパイ小説作家、ジョン・ル・カレについては、オレはそれほど熱心な読者というほどではないが、一時は大いに心酔し、スマイリー・シリーズを始めとした作品群の、その迷宮の如き諜報の闇に大いに恐怖したものだった。冷戦終結後は小説テーマに興味が薄れ、彼の小説から離れていたが、ここ数年は『裏切りのサーカス』を始めとした映画化作の出来が良く、オレも再びじんわりとル・カレ熱が戻ってきていたのだ。

そのル・カレが亡くなったのだという。12月12日のことであったらしい。オレは丁度、彼の最新作であった『スパイはいまも謀略の地に』を読んでいて、そしてこの日に読み終わっていたのだ。最新作であったものが遺作を読む事になってしまったという訳だ。オレも長年沢山の作家の色々な本を読んできたが、こんな奇妙なタイミングに出くわしたのも初めてだ。享年89歳というから、まあいいお歳ではあったが、この遺作の完成度の高さを思い知ってみると、まだまだ活躍してもらいたかったという気持ちは否めない。

ブログのほうは少し休むつもりだったのだが、今日はル・カレの追悼を兼ねて、遺作となった『スパイはいまも謀略の地に』の感想を通し、ル・カレがその小説で何をテーマとしてきたのかを振り返ってみたい。

小説『スパイはいまも謀略の地に』

『スパイはいまも謀略の地に』は、アメリカで悪名高きトランプ大統領が権勢を誇り、イギリスではブレグジットで国家が二分されていた、近過去が舞台となった物語である。

主人公はイギリス秘密情報部(SIS)のベテラン情報部員ナット。引退間近となった彼は、スパイの吹き溜まりと化した〈ヘイブン〉という名の対ロシア活動部署に移転させられる。部署を建て直すため新たな作戦に従事するナットは、ある日趣味のバドミントン・クラブで、エドという名の若者と知り合う。そんな折、ロシアの大物スパイがイギリスで活動を始めた、という情報がナットの耳に入る。作戦はいつしか紛糾し、もつれ合った糸の中で、ナットは思いもよらぬ真実に突き当たってしまう。

前作『スパイたちの遺産』においてル・カレが描いたのは、かつて冷戦構造の中で、国家の大義のために”汚れ仕事”を遂行してきたスパイたちが、「我々のやってきたことは果たして正しかったのか」と煩悶する様であった。それは平和の名のもとに様々なものを犠牲にし尽くしてきたことへの悔恨だった。それは「戦後」というものへの批評であり、その只中にいたスパイたちの行為の虚無性を浮き彫りにした。では『スパイはいまも謀略の地に』では何を描こうとしたのか。それは国家の走狗として暗躍してきた「スパイ」たちの、その一個の人間としての個人性ではないだろうか。主人公ナットは引退間近であり、まだまだ第一線で活躍する能力はあるものの、スパイ稼業に固執する必要をもはや感じていない。なぜなら彼には家族があり、私人としての家族との生活があり、老年に達した今その家族との生活こそを第一義としていたからだ。そして物語で発覚する「ある事実」は、スパイであるナットと、個人であるナットに、ある判断を迫る事となるのだ。

国家と個人の狭間で

ル・カレのスパイ小説は、スパイという特殊な職業を通じ、国家と個人の狭間で魂を引き裂かれ蹂躙され続ける一個の人間を描いてきた。 彼らは二重生活と二重思考のなかで生きながら、「果実のように充実した一個の自己」として生きられないことの孤独と虚無を体現していた。その「スパイという生」に対する敗北宣言がまさしく『スパイたちの遺産』であったのだと思う。

しかし『スパイはいまも謀略の地に』におけるナットは、もはや「魂を引き裂かれ蹂躙され続ける一個の人間」ではない。彼には愛する家族がいるだけではなく、作戦の中で出会った様々な人間たちとの「個人としての」感情がある。さらに、新しく出会った友情がある。老練なスパイであるナットは、そこで「国家か個人か」の選択に逡巡せず、国家と個人の狭間を巧みに渡り歩く。ここに、「スパイの生という名の敗北」から一歩踏み出した、あるいは逸脱した、もうひとつの「スパイ/個人」像が描かれることになる。

かつて、国家とは巨大な一枚岩の如き〈冷徹なシステム〉であり、スパイたちは〈平和の名のもとに〉そのシステムに奉仕しながら、システムそのものが非人間的であるがゆえに、それに挽き潰されていった。その〈虚無〉が、ル・カレのスパイ小説だった。だが、この『スパイはいまも謀略の地に』において、アメリカにはトランプという名の愚昧な道化が鎮座し、イギリスはその道化の太鼓持ちを演じているばかりか、ブレグジットにより国家は分裂し無秩序と化していた。このような国家に、どのような大義と責務があるというのか。

そして物語は、形骸化したシステムから逃走する、〈個人という名の自由〉をそこに見出すことになるのだ。それは、ル・カレ小説の新たな一歩だったのかもしれない。そして遺作であることを鑑みるなら、「スパイそのものからの解放」が、この物語であったともいえるのだ。

スパイはいまも謀略の地に

スパイはいまも謀略の地に

 
スパイたちの遺産 (早川書房)

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