冷徹なるシステムの中心で【人間的要素】を叫んだ男〜映画『誰よりも狙われた男』

誰よりも狙われた男 (監督:アントン・コービン 2013年アメリカ・イギリス・ドイツ映画)


この『誰よりも狙われた男』は、国際諜報スリラー小説の第一人者ジョン・ル・カレが2008年に発表した小説の映画化となる。ル・カレ小説の映画化作品は多いが、近年ではゲイリー・オールドマン主演で『ティンカー・ティーラー・ソルジャー・スパイ』を映画化したトーマス・アルフレッドソン監督作品『裏切りのサーカス』(2011)が話題を呼んだ。

物語の舞台は911テロの後に緊張高まるドイツの港町ハンブルグ。この国の諜報機関でテロ対策チームを率いるバッハマン(フィリップ・シーモア・ホフマン)はロシアからの密入国者イッサ(グレゴリー・ドボルキン)に目を付け、彼を泳がせる。イッサは人権団体の女性弁護士アナベルレイチェル・マクアダムス)に接触し、彼女を仲介にイギリス人銀行家ブルー(ウィレム・デフォー)と会おうとしていた。バッハマンの狙いはイスラム派の学者・アブドゥラ(ホマユン・エルシャディ)によるテロ団体への資金援助の情報を掴みだすことだったが、捜査は予想もしない方向に動き始めていた。

フィリップ・シーモア・ホフマンの遺作であり、その鬼気迫る演技が話題となる作品であろう。ここでホフマンはあたかも自らの死を予知していたかのような陰鬱で徒労にまみれた諜報部員バッハマンを演じる。バッハマンは国家保安保障という大義の為に己が使命を全うしようとするが、その職務には薄汚れた側面もあった。だがそれでもバッハマンはぎりぎりの部分で人間的であろうとしていた。けれども、彼と敵対する憲法擁護庁が強硬的な態度を見せ、さらにCIAが怪しい動きを見せる。密入国者イッサの目的は掴めず、女性弁護士アナベルは思わぬ行動に出る。この物語は、誰一人として信用できない状況の中で彷徨する一人の諜報部員の姿を通し、国際国家の冷徹さを浮き彫りにしてゆくのだ。

国際諜報スリラーをスリラーたらしめている部分は、国際情勢の暗部で蠢くものを抉り出し、その冷徹さを描くものであるのと同時に、【誰も信用できない】という極度にパラノイアックな状況の中で緊張状態が延々と続いてゆく、その恐怖にあるだろう。そしてその冷徹さとパラノイア的な心理状況を生み出すのは、国家という名の一つの巨大であり強大なるシステムなのだ。そのシステムの中で、人は心を持たぬ一個のパーツとして生きることを強要される。

それは「国家の為」であったり、「正義の為」であったり、この『誰よりも狙われた男』で皮肉に語られていた「平和の為」であったりする。その目的は高尚であっても、目的化された行為の中に、人間性は押し潰されてしまう。果たしてその中で、人は人であり続けられるのか?そして人であるということはどういうことなのか?国家というシステムの中で【そこに人間的要素はあるのか?】と問いかけることが国際諜報スリラーの真のテーマとなるのだ。

これは「国際情勢」という大きな物語の中の話だけではない。人は多かれ少なかれ、なにがしかの「システム」の中に生き、そこに参加することを求められる。それは国家はもちろん、会社企業であったり、地域コニュニティーであったり、あるいは家庭であったりもする。そこに「社会」がある以上、システムは存在する。そしてそれがひとつの【原理】になった時、一個人の思惑など容易く押し潰す怪物的な力を表わすことになるのだ。

「主語の大きな話し方」という言い方を時たまネットでも見かけるが、その「大きな主語」の中に、往々にして人は取りこまれてしまう。そしてその"主語"の為に奉仕することになってしまう。奉仕するもの、それはロボットだ。ロボットであり、人間性を剥奪されたもののことだ。この非人間的なシステムの中で、人はいかにして【人間的要素】を持ち続けられるか。諜報作戦の中で人間的であろうとしたバッハマン、人権の名の元にテロ容疑者をかばう女性弁護士アナベル、気高くイスラム的であろうとして道を踏み外すアブドゥラ、そして国際社会の中でその人生を蹂躙され続けてきたイッサ。映画『誰よりも狙われた男』は、国際情勢という大きな物語の中で、小さな一個人の抱える【人間的要素】の在り処を探り出そうとするドラマだったのだ。