無慈悲で強大なる力と"真正さ"との戦い〜映画『われらが背きし者』

われらが背きし者 (監督:スザンナ・ホワイト 2016年イギリス映画)


裏切りのサーカス』(2011)、『誰よりも狙われた男』(2013)の原作者として知られるジョン・ル・カレの、新たな映画化作品が公開される、というからこれは観に行かねばなるまいと思ったのだ。ジョン・ル・カレ、彼の作品はスパイ小説=国際諜報小説として知られるが、国家という巨大で冷徹なシステムの中で翻弄され命の危険にさらされる人々を、サスペンスフルに描くのが特徴となるだろう。また、主演のユアン・マクレガーロマン・ポランスキー監督作品『ゴーストライター』(2010)でもやはり国際的な陰謀に巻き込まれる男を演じている。彼のどこか所在なさげな表情はポリティカル・スリラーに向いているのかもしれない。
主人公となるのはモロッコ旅行中のイギリス人夫婦、ベリー(ユアン・マクレガー)と妻ゲイル(ナオミ・ハリス)。物語は二人がロシアンマフィア、ディマ(ステラン・スカルスガルド)と偶然にも知りあってしまう所から始まる。ディマは組織から家族ともども命を狙われていることを打ち明け、イギリス亡命の引き換えとして組織の情報の入ったUSBメモリをイギリス諜報部MI6に渡してほしい、と懇願する。困惑するベリーだったがディマの家族と懇意になってしまった以上引き受けざるを得ない。しかし空港でメモリを受け取ったMI6職員ヘクター(ダミアン・ルイス)はある理由からベリー夫妻まで巻き込んで極秘作戦を展開し始める。
物語の背後にあるのはロシアンマフィアによる国際的なマネーロンダリングの実体と、それに加担するイギリス政府高官の汚職である。物語はこれらに関わる者のあらゆる思惑を交錯させながら、ロシアンマフィア一家の脱出劇と、それを阻もうとする巨大な力を描いてゆく。死と隣り合わせの作戦は緊迫感に満ち、予期せぬ障害が次々と勃発してサスペンスを盛り上げる。しかし、そんな諜報作戦に市井の市民であるベリー夫妻が巻き込まれ、さらにあろうことか作戦協力までする羽目になってしまう部分にもうひとつのサスペンスがある。
しかしそもそも、なぜ一般人でしかないベリーが血腥い諜報作戦に協力しようとしたのか。まあ、旅行先でどう見ても怪しげな男のパーティーに足を運び、家族にまで引き合わされてしまう主人公も、どう考えても迂闊というか不用心すぎるし、マフィアと知りながら頼みを聞いてしまうというのもあまりに考えの浅い話だ。しかし、それもこれも、命の危険にさらされているというマフィアの家族の運命を、ベリーが憐れんでしまったことに起因している。その家族には何も知らない、年端も行かない子供たちが含まれていたのだ。
これは随分とナイーブすぎる話なのかもしれない。確かに、例えマフィアの子供であろうと、その命が危険にさらされているのを見て見ぬふりをするのは忍びないことかもしれない。だが、たかが一介の市民には、出来ることと出来ないことがある。主人公はスーパーマンではないし、戦闘や諜報の特殊技能を持つわけでもない。そういった部分で、主人公の行動というのはどこか青臭く、非現実的なものにしか見えない。しかしここで主人公の存在を、「真正さ」というものの"記号"として置き換えて改めて眺め渡してみると、この物語のテーマが見えてくる。
そう、確かに国際社会には魑魅魍魎がたむろし、冷酷で人の死などなんとも思わない悪逆非道の者たちが溢れかえっているのだろう。国家は冷徹なシステムでしかなく、それに奉じる者は生きた人間そのものよりもシステムの存続だけを第一義として歯車を回し続けるのだろう。力を持つ者、知略に長けた者だけが生き残り、弱者はいつもその生贄にされるしかないのだろう。それはル・カレがこれまで描いてきた国際諜報小説テーマそのものだ。
しかしそんな冷徹な世界を描きながら、この『われらが背きし者』においてル・カレは、そこにあえて「真正さ」を代入しようとする。その「真正さ」は、いつも踏みにじられ、無に帰せられ、敗北し続ける、無意味で無価値なものでしかないかもしれない。だが、もしもその「真正さ」が、自らが無意味で無価値なものと知りながらも、それが負け戦でしかないと知りつつも、無慈悲なシステムと拮抗しようと決意したら?映画『われらが背きし者』はそんな、小さき【人間的要素】が、強大な力にどこまで有効足りえるのか、その戦いを描こうとした作品ではないかと思うのだ。