消えゆく映画館へのエレジー〜『Cinemawala』

■Cinemawala (監督:カウシィク・ガングリー 2016年インド映画)


映画『Cinemawala』は西ベンガルの小さな町を舞台に、廃業した映画館の館主とその息子との対立を描くノスタルジックなベンガル語映画である。主演はパラン・バナルジー、それに『女神は二度微笑む』(2012)の警官ラナ役でお馴染みのパランブラタ・チャタルジーが出演しているのが嬉しい。
《物語》プラナバンドゥ(パラン・バナルジー)はかつて映画館を経営していたが、時代の趨勢に取り残され廃業を余儀なくされていた。しかし彼は今でも妻の名を付けた自らの映画館に足を運び、老朽化したオフィスでベンガル語映画の黄金時代を懐かしんでいた。一方、プラナバンドゥの息子プラカーシュ(パランブラタ・チャタルジー)は魚屋を営む傍ら密かに海賊DVDの販売を行っていた。彼はある日プロジェクターによる海賊DVD上映会を思いつき、見事に成功してしまう。しかし父プラナバンドゥは映画に対する敬意のないプラカーシュに苦々しい思いを抱いており、さらに違法上映に対する警察の捜査が始まっていた。
シネコンの台頭とデジタルメディアの普及は、セルロイド・フィルムを上映する単館上映館の経営を脅かし、インドでもその数は急速に減少してきているという。これはそんな単館上映館へのノスタルジーとオマージュを盛り込んだ作品だ。映画館主プラナバンドゥの脳裏をよぎるのは、かつてスクリーンに躍った膨大な数とスターと映画作品であり、そんな古き善き過去の時代にプラナバンドゥはすっかり取り込まれたまま出てこない。依怙地なまでに過去を全肯定し、現代の作品には目もくれない様子はどことなく異常ですらあり、それは単なる強烈な映画愛というよりも、そこに彼自身のこれまでの人生への幻滅があったのではないか。あるいはただ老いてゆき、なにもかもが過ぎ去った後に悔恨と懊悩しか残らなかったことへの絶望が。
一方プラナバンドゥの息子プラカーシュはただ単にちゃらんぽらんな男である。彼は人並みに映画は好きではあろうが、基本的に映画は彼のお手軽な金儲けの手段でしかない。海賊DVDを売り違法上映を行うプラカーシュには少なくとも「映画愛」は皆無だろう。この作品ではインドで流通する海賊版の実体をうっすらと伝えるが、確かにネットをちょっと探すとリッピングされたインド映画が山ほど出て来るのは確かで、かの国の映画産業も確かにこれでは頭を悩ますだろう。しかし違法行為はともかくとしても、結局彼には映画に対する「こだわり」がないだけなのだ。なにより彼が最も必要とするのは「金を儲けて」「生活すること」であり、腹の足しにもならない「映画愛」など優先順位が限りなく下のものでしかないのだ。これは映画を芸術や文化と捉える人間と、たまさかの暇つぶしであり娯楽以上のものではないとする人間の違いだろう。しかしそれは、どちらが正しいとか間違っているという問題ではない。
物語はこうして、映画を中心としながら新旧二つの世代、二つの価値観、二つの生き方を描いてゆく。この拮抗の果てに何が待ち構えているのか、と固唾を飲んで見守っていたら物語の展開は果てしなくネガティヴな方向へと向かってしまう。ノスタルジーという名のこじらせすぎた思い込みの果てが、こういった救いの無いものでしかない、という結末の付け方は少しどうにかならなかったのだろうか。ただこの感想は、鑑賞したオレ自身がノスタルジーというものにまるで興味が無い即物的な人間であるせいなのかもしれない。全体的に美しい映像と音楽が牽引してゆくこの物語は、滅びゆく単館映画館へのエレジーであり感傷なのだろう。そういった文学的なセンチメンタルさ、という部分においては、確かにベンガル映画らしいものであるとも思えた。