キング親子の放つ超ド級のパニック+ダークファンタジー巨編『眠れる美女たち』

眠れる美女たち(上)(下) / スティーヴン&オーウェン・キング

眠れる美女たち 上 (文春e-book)  眠れる美女たち 下 (文春e-book)

女子刑務所のある小さな町、ドゥーリング。平穏な田舎町で凶悪事件が発生した。 山間部の麻薬密売所を謎の女が襲撃、殺人を犯したのちに火を放ったのだ。 女はほどなくして逮捕され、拘置のために刑務所に移送される。彼女の名はイーヴィ。世界を奇妙な疫病が襲いはじめたのはこの頃だった。

それは女たちだけに災いする「病」――ひとたび眠りにつくと、女たちは奇妙な繭状の物質に覆われ、 目を覚まさなくなったのだ。繭を破って目覚めさせられた女たちは何かに憑かれたかのように 暴力的な反応をみせることも判明する。世界中の女たちが睡魔に敗れるなか、 謎の女イーヴィだけが眠りから逃れられているようだった。

静かな町にパニックの空気が満たされはじめる。睡魔にうち勝とうとする女たち。 取り残され不安に蝕まれる男たち。やがて町にふりかかるカタストロフィは、 まだ水平線の向こうにある!

女だけが罹る謎の病

女たちだけが罹る謎の病、「オーロラ病」。「眠れる森の美女」の主人公から名付けられたその病は、一度眠りにつくと決して目覚める事がないというものだった。世界を覆い尽くそうとするその疾病により、パニックに至る人々。女たちは眠るまいと必死となり、男たちはただ右往左往するばかり。さらに、オーロラ病患者を忌むべきものとして殺戮して回る集団まで現れたのだ。女たちが目覚めぬ世界は、今、滅びようとしていた。

先頃日本で翻訳出版されたスティーヴン・キングの新作長編『眠れる美女たち』は、あたかも今現実に巷を不安に陥れている新型コロナウィルスの如きパンデミックに見舞われた世界を描くホラー作品である。さらにこの作品、キングだけではなく息子であるオーウェン・キングとの合作であるという点でも話題となっている作品である。キングの息子で作家と言えばホラー作家ジョー・ヒルがいるが、このオーウェンも作家なのらしく、さらにキングの妻タビサも小説を上梓しているので、まさに作家一家という事が出来るだろう。

物語の舞台となるのはアメリカの小さな町ドゥーリング。世界的な災禍を小さな町という微視的な視点で描くわけだが、それだけではなく、この災禍の鍵を握るある”存在”がこの町に現れ、様々な謎と驚異を振りまいてゆくことになるのだ。その”存在”とは謎の女イーヴィー。人外の能力を持つこの女は、人類にとって凶兆なのかはたまた救いなのか。こうして物語はドゥーリングにある女子刑務所を中心としながら、数多くの登場人物たちの思惑が交差し、愛と憎悪、生と死、希望と絶望のタペストリーを織り込みながら爆走してゆく。

男と女の深い溝

いやあ、傑作だった。正直な所、個人的には最近のキング作品に不満を抱いていたので、今作の会心の一撃ともいえる面白さにはいちファンとして拍手喝采だった。キングには「超自然的な災禍による住民パニック」を描く作品として『アンダー・ザ・ドーム』、「パンデミックによる人類の滅亡」には『ザ・スタンド』という作品が過去にあったが、似ているようでそのどちらとも違う切り口があった。『アンダー・ザ・ドーム』はSF的切り口があり、『ザ・スタンド』は病原体によるパンデミックを扱ったが、この作品はむしろダークファンタジー的切り口にある作品なのだ。

なにより、「女たちだけが罹る病」を描くことにより、「男と女の深い溝」がどこまでもあからさまにされてゆくのがこの作品の最大の特徴だ。ここにはミソジニー、セクシャル・ハラスメント、ドメスティック・バイオレンスジェンダー・ギャップのモデルケースがこれでもかと描き込まれ、「男の、女へのあらゆる暴力」が可視化される。同時に、愛する妻や母や娘や恋人を謎の病によって次々と”失くして”ゆく男たちの悲しみと絶望も同時に描かれる。こうして物語は「男と女の深い溝」が永遠に溝のままなのか、それが修復される希望があるのか、を作品のもう一つのテーマとして描いてゆくのだ。

ただし作品は決してフェミニズム的指向性が先行しているものではなく、あくまで「もしもこの世界から女性が消えてしまったら」という単純な奇想を展開したものであり、その帰結する所としてこうしたジェンダー・ギャップへの批評・批判を描く事になったのだろう。だから大枠においては死と暴力と超自然現象が暴れ狂うキング的娯楽作品であり、ホラー作品なのだ。しかしキングはこれまでにも『IT』や『ローズ・マダー』の中で真摯に女性問題に取り組んでおり、彼の作家的良心の在り処がそこはかとなく浮き上がってくるのだ。

究極の邪悪

面白いのは作品の中心となる謎の女、イーヴィーの描かれ方だろう。これまでのキング・ホラーなら「究極の邪悪」がその中心にあり、登場人物たちはその顎から逃れようともがき苦しみあるいは死んでゆく様が描かれた。しかし今作におけるイーヴィーの描かれ方は決して「究極の邪悪」ではない。この世のものではない美しさを持つ彼女は超自然の力を使い、人々を翻弄し、同時に人々を試そうとする。平たく言えば魔女的な存在ではあるが、少なくとも「邪悪」と呼ばれるような単純な存在ではない。むしろ善と悪、破壊と創造を同時に行うトリックスター的な描かれ方をしているのだ。そこがキング作品として目新しく、また、ミステリアスな面白さを醸し出すことに成功している。

むしろ「究極の邪悪」は男たちの側にあり、彼らは眠りの中にある女たちを殺戮し、それを守ろうとする男たちまでも屠ろうと暴虐を尽くす。そう、なんとなれば、「男と女の深い溝」のその原因の多くは男たちによって為されたものであり、その男たちの膿疱を露わにし、それをひねり潰すことがこの物語の本質となっているのだ。物語後半は凄まじい(ある意味ベタに過ぎる)戦闘が描かれることになるが、これも「(ややもすればすぐ戦争を始める)男の愚かさ」を皮肉ったものなのだろう。

キングと息子オーウェンとの合作作品であること

例によって大部の作品であるが、物語展開はおそろしくスピーディーだ。登場人物が多く、頻繁に章を変え、人物を変え、場面を変えてゆく。これは物語にスピード感を与えるベストセラー小説技法の一つではあるが、そもそもがベストラー作家であるキングの小説にはあまり見られない、というかむしろ必要のない技法ではないかと思う。そこで思ったのは息子との合作であるということだ。

キングは息子に伝授する意味でこういった常套的技法をあえて使った(使わせた)のではないか。息子オーウェンの片鱗はあちこちで垣間見える気がする。それはイーヴィーを始めとする人物造形もそうだが、「究極の邪悪」といった二元論に頼らない部分、強烈な幻想味といった部分はオーウェンのものではないか。文章の若々しい疾走感をオーウェンのもの、と言ってしまうのはちと強引か。逆にキングらしからぬプロットのもたつきが微妙に散見したが、その辺りもオーウェンの若書きだったのではないかと邪推している。

どちらにしろこの合作は大成功だったと結論付けていいだろう。オーウェンはキング小説に新しい血を持ち込んだと言っていい。それはこの作品の驚くべき面白さが証明している。今だ創作意欲盛んとは言えキングももうイイ歳だし、息子との合作で幾らかは負担が減るのではないか。今後もこういった形で合作を発表してくれたら諸手を挙げて歓迎するだろう。……いや待てよ、負担が軽くなった分さらに矢継ぎ早に分厚い長編を連発するようになったら?うーむ、嬉しいような、しんどいような……あああ、悩ましい!