■かぞくのくに (監督:ヤン・ヨンヒ 2012年日本映画)
映画『かぞくのくに』は大阪出身の在日2世であるヤン・ヨンヒが監督し2012年に公開された日本映画である。これまでドキュメンタリーを撮って来た彼女の初のフィクション作品であるのらしい。そして物語は彼女の実体験を基にしているのだという。その物語とは在日コリアン家族の元に北朝鮮から一人の男が25年振りに帰って来るというものなのだ。
【物語】在日コリアンのソンホは総連の重役を務める父の勧めに従い、当時「理想郷」と称えられていた北朝鮮の「帰国事業」に参加し半島に渡り、現地で結婚し子供も生まれたが、離れ離れとなった家族の再会は果たされていなかった。 それから25年、ソンホの一時帰国が実現する。ソンホは脳に悪性の腫瘍を患い、その治療のため、3ヶ月の期間限定で日本滞在が許されたのだ。久々の再会に妹のリエや母ら、家族は歓喜し、ソンホを温かく迎え入れる。だがソンホには常に同志ヤンが付き従い、その行動を制限・監視していた。 かぞくのくに - Wikipedia
出演は安藤サクラ、井浦新、京野ことみ、宮崎美子。それと映画『息もできない』監督として知られるヤン・イクチュンが出演している。監督のヤン・ヨンヒはこれまで『デイア・ピョンヤン』『愛しきソナ』のドキュメンタリー作品がある。ヤン・ヨンヒについてはTwitterで韓国を巡る言説に対して忌憚の無いツイートをされていたのが気に入りフォローしていたが、そういえば監督作品をちゃんと観ていないなあと思い、今回アマプラでこの作品を見つけて観てみたのだ。
まずこの作品で押さえておかねばならないのは「25年振りに北朝鮮から帰って来た」とはどういうことか、ということだ。これは1950年代から1984年まで行われていた在日コリアンの北朝鮮集団移住、いわゆる「帰国事業」(あるいは「北送事業」)に参加した者である、ということだ。当時日本政府は在日コリアンの大量送還を検討していたが、韓国は朝鮮戦争による復興が立ちいかず難色を示し、替わって北朝鮮が「地上の楽園」を喧伝することで多くの在日コリアンを受け入れることとなった。その頃、「共産主義国家」には多大に甘やかなる幻想が付与し、北朝鮮が実際はどういう国家だったのかまだ知られていなかったのだ。結局、北朝鮮に希望を抱いて移住した在日コリアンたちは、その全体主義の中で多大な苦渋を強いられることになる。そしてこの映画は、医療の整っていない北朝鮮から、日本の家族の元に、治療のための一時帰国を許された男の物語となるのだ。
久々の対面に万感となる家族だったが、「北」からやってきたソンホ(井浦新)には「北」の監視員(ヤン・イクチュン)が随行し、彼らの家は常に監視されていた。まずこの描写から既にこの物語の尋常ではない雰囲気が伝わってくる。主人公リエ(安藤サクラ)の家に入るとそこには北の大将軍キム主席の写真が飾ってある。リエとソンホの父が朝鮮総連の重役だからだ。その父の力添えがあったからこそソンホの一時帰還も可能だった。だがこのキム主席の写真でまたもや物語に重い空気を感じてしまう。25年振りの家族の団欒に顔ほころばすソンホだが、彼は無口だ。日本在住時代の友人たちと再会を祝すパーティーが開かれるけれども、やはりソンホは多くを語らない。いや、語れないのだ、それは「北」の生活を公言できないからだ。かつての友人たちも彼の寡黙さの意味を察している。上辺は楽しげだがどこか深く立ち入ることのできない壁があることを知っている。ああ、なんなのだろうこの痛々しさは、いたたまれなさは。
友人たちの中にスニ(京野ことみ)という女性がいた。既婚者であるが、ソンホとの会話の雰囲気から察するに、かつて二人は恋人同士だったようだった。そして今も、それぞれの国で家庭をもうけていてさえ、お互いに仄かな想いがどこかに残っているようだった。25年間続いてしまった未練と後悔。そこには「ソンホが北にさえ行かなければ、二人はきっと、幸せな未来を築いていたはず」という遣る瀬無い悔恨があった。しかしソンホは、「”もしも”なんて存在しないんだ」とスニに言い切ってしまう。それは厳然たる現実への深い諦観だ。物語が佳境に入る時、スニは思い余ってソンホにこう言ってしまう、「二人でどこかに逃げてしまおうか?」と。だがもちろん、そんな甘く危険なロマンス展開などこの物語は許しはしない。なぜならそんなことは有り得ない絵空事だからだ。どこにも逃げられはしないし、逃げる事を許しはしない。夢見ることも、愛の幻想に逃避することもできない。それが現実であり己に課せられた運命なのだ。だとしても。なんとこれは辛く過酷な物語なのだろう。
一方、主人公であるリエは日本で暮らし日本の自由さと資本主義社会の恩恵を日本に住む誰もと同じように甘受する女性だ(日本における在日コリアンの不自由さは現実にあるとしてもこの映画では描かないし主題ではない)。そんなリエに北朝鮮の国家体制など1ミリも受け入れる事などできるはずがない。総連の重役である父が兄を「北」に送り出したことも許してはいない。北朝鮮と父と兄を取り巻く全ての状況が彼女にとってナンセンスであり全く理解不能のものでしかない。その理解不能で理不尽なものが兄を奪い家族を引き裂くことに彼女は怒りの叫びを上げ続ける。「北朝鮮なんて大嫌いだ!」と彼女は糾弾する。彼女は日本というひとつの自由主義国家で人がどう生きるべきか、生きる事が出来るのかを知っている。彼女はいつでも夢見る事ができ家族を愛することができ「もしも」を現実にする事が出来る力があることを知っている。そしてそれが出来ない現実があったとしたらそれは嘘っぱちだし徹底的に拒否していいことを知っている。「北」から決して逃れることのできない兄の代わりに本当の「自由」を請い求めるのがこの映画での彼女の役割なのだ。このリエは監督ヤン・ヨンヒその人なのだろう。
映画『かぞくのくに』の、その「くに」とはなんなのだろう。家族にとって国、「国家」とはなんなのだろう。兄ソンホの住む国は北朝鮮だった。リエとその家族は日本に住んでいた。そしてソンホとリエの一家は韓国に出自を持っていた。では、彼らにとって、自らのアイデンティティの基盤となる国はどこなのか?それは日本なのか韓国なのか北朝鮮なのか。いや、それは国ではないのだ。リエとソンホが安心して住まうことのできる場所があるのだとすれば、それは家族の中なのだ。だからタイトル『かぞくのくに』は逆説的な意味合いを持ったタイトルであり、「かぞく」を「くに」が引き裂くことを意味したのがこのタイトルであり作品なのだ。
映画は、家族の物語を描きながらも間諜小説の如き緊張感と不条理さに満ち、日本を舞台にしながらも「鏡の国の日本」とすら思わせるような不気味な非現実感を覚えさせる。しかしながら、そんな現実に「否」を突き付けること、そして一筋の希望を決して忘れないことがこの作品の柔軟さであり強靭さなのだと思う。在日2世であるヤン・ヨンヒは、日本映画でもなく韓国映画でもない、独自の立脚点からこの作品を生み出し、それは素晴らしい成功を収めている。傑作です。