”癒し”という名の芸術/映画『ホドロフスキーのサイコマジック』

ホドロフスキーのサイコマジック (監督:アレハンドロ・ホドロフスキー 2019年フランス映画)

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ホドロフスキーによる心理療法「サイコマジック」

『エル・トポ』『ホーリー・マウンテン』などで知られるカルト映画監督アレハンドロ・ホドロフスキーはオレの大のお気に入りの監督の一人である。ホドロフスキーはこれら唯一無二と呼んでいいカルト映画作品を生み出してきたが、他にもバンドデシネ原作者やタロット占い師としても知られており、さらに「サイコマジック」と呼ばれる心理療法を提唱しそれを実践していたりもするのだ。映画『ホドロフスキーのサイコマジック』は、ホドロフスキー自身が監督・演出を手掛けた、「サイコマジック」に関するドキュメンタリー作品となる。

冒頭まず、ホドロフスキーによるキャプションが入れられる。ホドロフスキーは言う、「精神分析学は神経科フロイトが生み出し、その根本は科学である。サイコマジックは映画監督で演出家の A・ホドロフスキーが生み出した。その根本は芸術である。精神分析は言葉を介したセラピーであり、サイコマジックは行動を介したセラピーだ」と。すなわちホドロフスキーは、「サイコマジック」をセラピーであるのと同時に「芸術である」と言い切っているのだ。心理療法と芸術。この、あまり関連性が無さそうな二つのものがどうして結びつくのか。

作品内では多くの患者たちが登場し、それぞれの悩みを訴える。その多くは家族との葛藤であったり、夫婦の問題であったり、コンプレックスであったり、人生の意味を失った者たちである。これらをホドロフスキーはどう「癒す」のか。どのような形で「サイコマジック」を施すのか。

■思考ではなく無意識に働きかける治療

例えば「自殺寸前まで父親に虐待された男」は胸を中心としたマッサージを行われそこに沢山のゴム紐を擦り付けられた後、それを捨てさせる。さらに裸にされた男は地中に埋められその上には動物の肉片がばら撒かれ、それをハゲタカたちがついばむ。地中から出された男はミルクによって体中を洗われ、綺麗な洋服に着替えた後、父親の写真がぶら下げられた風船を天高くまで飛ばすのだ。ここまでで言葉によるセラピーは一切行われず、ただなにがしかの「行動」だけが男に課せられる。そしてそれにより、男は癒されることになったのだ。

この「自殺寸前まで父親に虐待された男」のセラピーは、ちょっと観ただけでも「象徴」によって成り立っていることにすぐ気付かされる。胸元から投げ捨てられたゴム紐は「心のわだかまり」だし、地中に埋められ再び出せられるのは「過去の自分の放棄と新たなる再生」だし、風船と共に空に飛ばされた父親の写真は「父親との決別」だ。

全てが分かり易い「象徴化」であり、その「象徴化」されたものに対してアクションを起こさせることで治療を完成させる。それが「サイコマジック」なのである。「サイコマジック」は心の中に曖昧模糊として存在する感情を一つの象徴に当て嵌め、それを実体化したものを目の前に差し出す。その実体化したものに何某かのアクションを加えることで心に内在する感情に動きを与える。それは抑圧された自我の解放という事だ。それは言葉=思考ではなく無意識に働きかける治療なのだ。

また、作品内において多くの患者は裸にされマッサージを受けるが、それはマッサージというよりも小動物や子供がじゃれ合っている様に非常に似ている。これにより患者たちの心は子供の頃の心に立ち返る。母に抱かれ、兄弟とじゃれあった幼少時に、生まれたてだった頃の自分に戻される。そうすることで今まで澱のように溜まった感情を白紙に戻し、まっさらな目で問題と向き合わせようとする。これもまた自我の解放である。群れを成す哺乳動物の多くは触れ合うことで安心を得るが、そもそも人間というのは哺乳動物であり、このように心の壁を失くし他者と触れ合う事で安心を得ることの出来る生物なのだ。

■象徴と暗喩

映画化にもなったホドロフスキーの自伝『リアリティのダンス』は、その3分の2ほどは確かにホドロフスキーの芸術に関わる半生を綴ったものだが、後半の3分の1は自分がどのように「サイコマジック」へと辿り着いたのかが記される。それは魔術師、シャーマン、呪術医との出会いから始まっている。個人的に、即物的に感想を述べるなら彼らはイカサマ臭い連中ということもできるのだが、彼らの施術に効果があるのだとすれば心理的プラセボということになるのだろう。そしてそれがこと「心の内の治療」であるなら、プラセボであったとしても有用であるのではないか。ではそのプラセボはどのようなシステムによって成り立っているのか。それをホドロフスキーなりに構築し直したのが「サイコマジック」ということなのではないか。

自伝『リアリティのダンス』から幾つか引用しよう。「サイコマジックが基本的な前提とするのは、無意識は象徴や暗喩を受け入れて、それらに現実の出来事に対するのと同じ重要性を与える、という事実だ(p428)」「脅迫的な予言から自由になる唯一の方法は、忘れようとするのではなく、実行することだ(p433)」「命に対し、私たちは頭で理解するだけでなく、感情的、性的、肉体的にも注意を向ける必要がある。命の力は過去にも未来にもない。過去や未来は病の棲む時間である。健康は、いま、ここ、にあるものだ。自らを過去の自分と同一視するのをやめれば、悪習慣というものはすぐにも捨てられる(p487)」。インチキ臭いなどと言ってしまったが、実は論理的であり実践的な方法ではないか。

もちろん、「サイコマジック」が非常に優れた心理療法である、などと持ち上げるつもりも無いが、しかしそれが、ホドロフスキーという芸術家がこれまで見聞きし体験し考えた膨大な知識の中から生み出された、まさにホドロフスキーでなければ成し得ない心理療法である、ということは出来るだろう。そしてホドロフスキーは、その治療を芸術である、と言い切る。それはどういうことなのか。

■”癒し”という名の芸術

ホドロフスキー作品の卓越した表現の多くは、実は「象徴性」によって成り立つ。そしてその「象徴性」を具体的なモノ・コトとして描き、表層において「見えているもの」をその表層下における「意味するもの」に直結させて描き切ってしまうのだ。すなわち、ホドロフスキー映画においては「象徴性」によって全ての「表層下」にあるはずのものが予め「顕わ」になっているのである。だから多くのカルト映画監督作品と比べ、ホドロフスキーの作品はややこしいけれども「分かり易い」。

映画『ホドロフスキーのサイコマジック』を観ていると、これが心理治療に関するドキュメンタリーであることを忘れて、あたかもこれまで製作されたホドロフスキー作品と同じものを観せられているような気さえしてくる。それはこの作品が人の無意識にあるものを具現化した象徴性によって成り立っているからだ。その具現化、象徴化の在り方は、これまでのホドロフスキー作品のそれと同一なのだ。ひとつの心理治療であるにもかかわらず、それはホドロフスキー映画芸術へのアプローチの仕方と直結している。だからこそ、ホドロフスキーにとって「治療=芸術」として結びついているのだ。

自伝『リアリティのダンス』において、ホドロフスキーはこうも言っている。「芸術の目的とは癒すことである(p512)」と。ここでホドロフスキーによる傑作映画の多くを、「癒しを目的とした芸術」として捉えるならば、また違った観方で楽しむことが出来るかもしれないと思う。

なおこの作品は当初4月24日劇場公開予定だったが、新型コロナウィルス拡大による緊急事態宣言で各地映画館が休館となり、急遽期間限定のオンデマンドの形での先行配信となった。緊急事態宣言解除後に劇場公開がされる見込みだが、より早く観たい方、また、劇場に対する応援を希望される方はこの配信を利用されるといいと思う。詳細は下記で。

公開が延期となった映画『ホドロフスキーのサイコマジック』を本来の公開日4月24日(金)より、アップリンクの運営するオンライン映画館「アップリンククラウド」にて先行配信いたします。 今回の先行配信は、映画館への支援としてオンライン映画館での売上から、本作の上映を予定している全国の映画館へ均等に分配します。 通常プラン1,900円と、寄付込みプラン2,500円をご用意しました。いずれも72時間レンタルとなっております。https://uplink-co.square.site/psychomagic

リアリティのダンス

リアリティのダンス