■ホドロフスキーの虹泥棒 (監督:アレハンドロ・ホドロフスキー 1990年イギリス映画)
I.
好きな映画監督は多々いるが、アレハンドロ・ホドロフスキーともなると別格だ。『エル・トポ』を中心とする"神秘主義3部作"(そんな言葉はない。今捏造した)はもとより、最近日本でも公開された『リアリティのダンス』(2013)も胸を抉るような名作だった。また、『アンカル』をはじめとするバンドデシネ作品の原作者としても非常に注目すべき活動をしている。
そんなホドロフスキーが1990年に監督し、これまで日本未公開だった作品が公開された。日本タイトルは『ホドロフスキーの虹泥棒』。イギリス製作作品らしい。詳細などはオフィシャルサイト掲載の紹介文を拝借したので参考にされたい。
「アラビアのロレンス」の伝説のコンビ、ピーター・オトゥール&オマー・シャリーフ主演によるホドロフスキー監督初のメジャー大作。加えて、クリストファー・リーも印象深い役を怪演している。本作はホドロフスキー監督長編第6作目にして初のメジャー資本、また初のイギリス映画である。撮影はポーランドのグダニスクで行われた。本作はイギリス(1990)、イタリア(1990)、フランス(1994)などで公開(公開当時は87分)されたもののアメリカでは未公開であり、日本においても完全未公開のままであった。今回、ホドロフスキー監督監修による「ディレクターズ・カット版」(92分版)にて日本初公開となる。
II.
物語は大富豪ルドルフ(クリストファー・リー)の遺産を巡るいざこざから始まる。その遺産の相続人として名が挙がったのは甥のメレアーグラ(ピーター・オトゥール)。しかし親族たちの骨肉の争いを眼にしてうんざりしたメレアーグラは地下下水道に身を隠し、そこで暮らすようになる。そんな彼の身の回りの世話をするのはチンケなコソ泥のディマ(オマー・シャリーフ)。彼はいつかメレアーグラの遺産の分け前を手にすることを当てにしながら貧民街でかっぱらいを続けるが、ある日メレアーグラと仲違いし地下下水道を飛び出してしまう。そんな折、世紀の大暴風雨が街を襲いメレアーグラの住む地下下水道は濁流に飲み込まれようとしていた。
ホドロフスキー作品であるという以前にピーター・オトゥール&オマー・シャリーフ出演の日本未公開作が観られる、というのも嬉しいが、そのピーター・オトゥールが単なる変人でありオマー・シャリーフがアコギなコソ泥であるといった配役が面白い。クリストファー・リー演じるこれまた変人の大富豪の役柄も楽しいが、イギリスのパブ・ロック・アーチスト、イアン・デューリーがバーテンダー役で出演しているところもブリティッシュ・ロック・ファンには嬉しいだろう。こうして見ると癖がありながらもなかなか豪華なメンツが揃っており、なんでホドロフスキー作品に?とは思うがこれもまたホドロフスキーの人望の厚さなのかも知れない。
III.
さて先に紹介したザックリした粗筋だけだと伝わり難いが、映画全体がホドロフスキーらしい奇抜なガジェットで覆い尽くされ、奇矯な人間たちが立ち現れ、そしてそれらが摩訶不思議に結びつきあいながら物語を展開してゆく様に目が引かれる作品である。大富豪ルドルフの犬だらけの奇妙な邸宅、そこに訪れる売春婦たちの淫蕩ぶり、地下道隠遁者のメレアーグラが暮らす廃物再生品で埋め尽くされた住居、そしてコソ泥のディマが闊歩する貧民街の猥雑さとそこに住む風変わりな住民たち。街で行われる怪しげな大道芸の様子もホドロフスキーの面目躍如といったところだろう。
しかし「地下道隠遁者とそれを支えるコソ泥との物語」というその内容は、上っ面だけ観てしまうとそれほど深い物語性を感じさせないものであることも確かだ。だがそこは神秘主義者であるホドロフスキー作品、物語に配されたキーワードを拾い上げながら意味を探してゆくしかない。ここからはオレの解釈なのでこれが正しいと主張するつもりはない。まず地下下水道というのはいわゆる胎内であり非日常であり、即ち現実世界から隔絶された場所である。ここに引き篭もる隠遁者メレアーグラは現実を否定し自らの大いなる夢想の中のみに遊ぶモラトリアム者である。一方それに使役するコソ泥ディマは、生きるためにコソ泥をしなければならない現実に塗れた男であり、それは現実の汚濁をも自らに背負い込んだ存在である。
こうして「地下と地上」「内と外」に分かれるメレアーグラとディマは「精神と肉体」「妄想と現実」「形而上と形而下」「使役する者とされる者」「清廉と汚濁」「無垢と罪業」…といった二項対立の中にある存在として描かれる。しかしこの物語で描かれる両者は相互依存的な関係であり、それぞれが存在しなければ生きていけない。即ちそれらは対立した概念ではなく補完し合う関係なのだ。とはいえこの両者は水と油のように離反したまま存在している。しかしここで大災厄が訪れる。これにより離反した相互の概念は混沌の中で暴力的に淘汰させられるのだ。ではそれは何を意味するのだろうか。
IV.
冒頭、巨額の遺産金を手にするはずだったメレアーグラは、しかし金にまつわる諍い事を嫌い地下道に隠遁する。なぜなら彼には金よりも尊いものがあったからだ。とはいえ彼はディマが盗んできた食料や日用品なしでは生活できない。ここにメレアーグラのジレンマがあり、さらに物語の中で描かれる様々な二項対立は全てメレアーグラのアンビバレンツを表したものだといえる。そしてこれは同時に初のメジャー資本作品を手掛けたホドロフスキーの抱えるジレンマでもあったのだろう。ホドロフスキーは最近のインタビューの中で「金が無ければ映画は作れないが、それでは商業作品だと認めることになってしまう、しかし自分の作りたいのは芸術作品なのだ」と呟いていたが、製作費とその出資者の思惑、それと芸術性との狭間でいつも頭を悩ませていたのだろう。
映画のタイトルは「虹泥棒(The Rainbow Thief)」、それは追いかけても追いかけても手に触れることのできない幻影である「虹」を手にしようということである。ここでタイトルが「Seeker(追い求める者)」ではなく「Thief(泥棒)」であることに注意したい。泥棒はそれが犯罪であろうとも手に入れたいものを手に入れる。手段を選ばないということだ。金にまつわる疎ましさに悩みながら芸術性を追い求めるホドロフスキーは、しかしそれが綺麗事でしかないことにも気付いていたのだろう。だからこそ泥棒のように狡猾に振る舞わねばならない。映画はアンビバレンツとジレンマの果てに大災厄を迎えるが、その後に待つものこそがホドロフスキーの獲得した新たな認識だったのではないか。映画『ホドロフスキーの虹泥棒』はホドロフスキーが自らに課したサイコセラピーだったのだろうと思う。
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