■テリー・ギリアムのドン・キホーテ (監督:テリー・ギリアム 2018年スペイン・ベルギー・フランス・イギリス・ポルトガル映画)
■オレとテリー・ギリアム
テリー・ギリアムが好きな監督かと聞かれると一瞬「う~ん」と考えてしまう。『12モンキーズ』と『フィッシャー・キング』は好きだ。『バロン』はまあまあかな。しかし『未来世紀ブラジル』となると悪くは無いんだがアクが強くてなあ、と思ってしまう。『ゼロの未来』だって嫌いじゃないんだがやっぱりクセが強くて……。これが『ラスベガスをやっつけろ』や『ローズ・イン・タイランド』ともなるとエグ味がキツ過ぎてもう二度と観たいとは思えない。要するにオレにとってテリー・ギリアムというのは「気になる映画監督」ではあるが「クセが強くてアクも強くてエグ味もきつい、嫌いでもないが手放しで好きとも言えない」という、名状しがたい珍味みたいな監督でもあるのだ。
そんなテリー・ギリアム監督の新作映画『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』を観た。ちょっと前は『ドン・キホーテを殺した男』(原題)というタイトルだったはずだが、なんだかこんなクレイジー・キャッツ映画みたいなタイトルに落ち着いたらしい(例えが古いなオレも)。やはり「テリー・ギリアムの」と付けないと「格安の殿堂」のほうのドン・キホーテだと思われてしまうからだろうか。完成したのなら観ねばなるまい。という訳で劇場へと足を運んだオレだったが、観終ってみると、なんとなんと、これは大傑作ではないですかッ?!早くもオレの2020年度殿堂入り映画決定ですよッ!?
■自分がドン・キホーテだと思い込んでいる男
物語の主人公はCM監督のトビー(アダム・ドライバー)。彼は今スペインでCMの撮影中だったが、ある日酒場でジプシーから手渡されたDVDに息を呑む。それは学生時代卒業制作映画としてこの地で撮ったドン・キホーテの映画作品だった。運命的なものを感じた彼は当時撮影場所に使った村へと向かう。だが、かつてヒロインとして出演させた娘アンジェリカ(ジョアナ・リベイロ)は街で堕落した生活をしていると聞かされ、さらにドン・キホーテ役だった靴職人ハビエル(ジョナサン・プライス)の元を訪れると、彼は自らをドン・キホーテだと思い込んでいる狂人と化していた。トビーを見たハビエルは「お前はサンチョ・パンサ!」と喜色満面となり、こうしてなし崩しにハビエル/ドン・キホーテとトビー/サンチョ・パンサの奇想天外な旅が始まる事になってしまうのだ。
映画ファンには有名な話だろうが、この『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』、「映画史上もっとも呪われた企画」とまで呼ばれるほど何度も何度も悲運に見舞われ企画頓挫を繰り返した作品なのだという。その一端はドキュメンタリー映画『ロスト・イン・ラマンチャ』で描かれるが、オレはこれは観ていない。基本的に映画の裏話とかゴシップとか興味が無いタチなのだ。そもそも映画のメイキング映像を観るのすらかったるく思うぐらいでな。完成した映画しか興味が無いんだ。とはいえ「なんとあの『ドン・キホーテ』がクランクアップした!」と聞かされた時は少々色めき立ったが。
原案となる「ドン・キホーテ」は1605年~1615年にスペインの作家セルバンデスでよって書かれた古典中の古典文学。内容はと言うと「騎士道物語の読み過ぎで現実と物語の区別がつかなくなった郷士(アロンソ・キハーノ)が、自らを遍歴の騎士と任じ、「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」と名乗って冒険の旅に出かける物語」(Wikipedia丸写し)で、「風車をドラゴンと思い込んで突撃する騎士の格好のおっさん」なる情景が有名であろうか。岩波文庫だと前編後編で全6巻もあり、実はオレは全巻持ってはいる、持ってはいるんだが全く読んでいない……ッ(痛恨の一撃)!
■現実ってなにさ!?
粗筋で紹介したように、まずこの物語はセルバンテスの原作小説をそのまま映画化した作品ではない。ではなにかというと原作にある『自分をドン・キホーテだと思い込んでいるおっさんの物語』を演じることで【自分もまたドン・キホーテだと思い込むようになってしまったおっさんの物語】なのだ。さらにそのおっさんの妄想に付き合わされることになったのは、【『自分をドン・キホーテだと思い込んでいるおっさんの物語』の映画を撮った監督】なのである。つまり二重の意味で妄想/フィクションに取り込まれた男を描くメタフィクションだという事が出来る。
他愛のない妄想なら無害かもしれないが、自らを遍歴の騎士ドン・キホーテと妄信するハビエルは既にして狂気の世界の住人である。しかし、かつては名も無い靴職人でしかなかったハビエルは、ドン・キホーテという妄想の中で生きることにより、崇高な目的を持つ高潔な男として生きることになる。この時、ハビエルにとっての幸福というのはどちらにあると言えるだろうか?
いや、確かに狂気により生み出された幸福などまやかしかもしれない、しかしこう考えてはどうだろう、無為な人生の中にちょっとしたフィクショナルな要素、思い込み、成り切りを加えることで、人は幾ばくかの楽しみ、喜び、豊かさを得るものではないのだろうか?確かにそれは「現実」ではないかもしれないが、しかし、そもそも、「現実」とはなんなのだ?世界が観る者の視点により変わるように、実は「客観的な現実」など存在せず、あるのは「主観的な現実」だけなのではないのか。つまり「現実」とは、それ自体が撞着を孕むものなのではないのか。
■自分という物語
ハビエル/ドン・キホーテにサンチョ・パンサ人格を押し付けられてしまったトビーもまた、ハビエル/ドン・キホーテの妄想に浸食されてゆくことになる。彼は次第に「現実」の中にある筈の無い物を見、いる筈の無い者を見出してゆくようになるのだ。だがそれは、「狂気の伝播」というよりも、「(ドン・キホーテという)巨大な物語の中に取り込まれてしまった者」ということはできはしないか。なぜなら、(ドン・キホーテという)その物語自体が、最初に(映画という形で)トビーが生み出してしまったものだからだ。彼はハビエル/ドン・キホーテという触媒を通して、自らに内在する【物語】を呼び起こしてしまったということなのではないのか。
人は、そもそもが【自分という物語】の中で生きているのではないか。それは「自己観念」と言い換えることもできると思う。「裸の自己」とは「寝て起きて食って排泄して生殖してやがて死ぬ動物としての自己」でしかないけれども、そこに「自分は何であり誰であり何に所属し何を愛し何を信条とするかを認識する自己」を持つことで、即ち【自分という物語】を持つことで、ようやく人たらしめている=個我を持つことが出来るのではないか。そして、自らの抱える【物語】はそれが【物語】である以上いかようにも変幻可能であり、だからこそ、「現実」とは、主観によっていかようにも変幻可能だと言えるのではないか。こうして主人公トビーは、ハビエル/ドン・キホーテと同じように、新たに付加されたその【物語】を生きることで、それまでの索漠とした人生から脱出し、理由と目的と意味を持った人生=新たな現実を見出すこととなるのだ。
『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』は、現実と虚構、真実と嘘、正気と狂気の境目がどんどん曖昧になってゆく、夢とも悪夢とも取れる物語だ。しかし実はそれは、現実であり真実であるとされるものとは、自らの選択によりどのようにでも変わりうるし、少なくとも人は、その選択した現実なり真実なりの在り様によって、押し潰されたかもしれない自らの魂を救うことができる、という物語なのだと思うのだ。そういった部分でテリー・ギリアム作品『フィッシャー・キング』と相通じるものを感じるし、そもそもギリアムの作品というのが現実/虚構の曖昧さの中で人は何を選ぶのか、という部分でドラマを描き続けてきた監督だったんじゃないか。今作はその集大成であり、だからこそ優れた傑作なのだとオレは感じるのだ。