悲しみの段階〜ジュリアン・バーンズ 『人生の段階』

■人生の段階 / ジュリアン・バーンズ

人生の段階 (新潮クレスト・ブックス)

誰かが死んだことは、その存在が消えることまでは意味しない――。最愛の妻を亡くした作家の思索と回想。気球乗りは空の高みを目指す。恋人たちは地上で愛しあう。そして、ひとつに結ばれた二人が一人になったとき、遺された者はもう生の深さを感じられない。―― 有能な著作権エージェントにして最愛の妻だったパット・カバナをとつぜん喪ったバーンズは、その痛みに満ちた日々をどのように生きたのか。胸を打つメモワール。

英国作家ジュリアン・バーンズの『人生の段階』は奇妙な作品だ。物語は3部に分かれる。第1章「高さの罪」では19世紀ヨーロッパにおける熱気球の勃興が描かれる。ここはノンフィクションだ。第2部「地表で」ではやはり19世紀を舞台に実在した英国軍人とフランス女優とのフィクションの恋が描かれる。そして第3部「深さの喪失」では、作者ジュリアン・バーンズが2008年に亡くした妻へ想いとその悲しみとが書き綴られている。これは作家個人の自己の心情吐露ということになる。
当然本題となるのはこの第3部だろう。しかし、それ以前の2章とはなんの繋がりがあるのだろう。確かに各章の最初に書かれる「組み合わせたことのない二つのものの組み合わせ」ということでは、第1章の気球と写真、第2章の立場の違う男女の恋、そして第3章における作家バーンズと妻との出会い、という点において一致しているのかもしれない。第1、第2章で言及される"気球"は、天の高みと地との距離という点において、悲しみの底に落とされた作家の心情的な落差を表わしているのかもしれない。
ただ、どちらにしても遠回しすぎ、3つの章の関連性は希薄なもののように思えてしまう。しかしこう考えたらどうだろう。作家バーンズは、核心である第3章を書くために、そこへの心情的な距離をどうしても置かねばならなかった。さらにバーンズは作家として、生々しい心情吐露だけの文章を書くことはできなかった。だからこそ、一見関連性がありそうでなさそうな、2つの物語を書き終えた後でなければ、その核心を対象化し文章化することができなかった。それは作家の性ともいえるし、作家であることの良心ともいえる書き方だったのだろうと思う。
突然の伴侶の死は、バーンズにとっては身を裂くよう悲しみだったろう。しかし、「身を裂くような」などという陳腐な表現はオレのような凡俗がこんなブログに書き散らかす為にしか使えないものであり、バーンズはその"悲しみ"の在り様を徹底的に整理し抑制しさらに合理性が高く含蓄に富んだ文章へと落とし込もうと格闘するのだ。そしていかに整理し抑制して書かれようとも、そこからどうしても染み出さざるを得ない感情の底にあるものの姿が浮き上がってくる部分に、作家というものの業を感じ、また作家が作品をしたためることの凄みを感じてしまうのだ。
そしてこの3章で書かれる伴侶の死に、その悲しみの本質に、バーンズは安易な同情や共感を求めようとしない。本書の中でバーンズは、病床にある妻の間近の死に際し、同様の体験本を幾つか購入し、否応なく訪れるであろう悲嘆への心の準備をしようとしたが、それらは、全く役に立たなかったという。悲しみは、どれも個別のものであり、何かと同じとか、似ているということはないのだという。これは、バーンズのこの本を読む我々にも当てはまる。バーンズの悲しみは、理解することも、想像することもできるけれども、しかしバーンズの悲しみそれ自体を、体験することは決してできないのだ。けれども、読者への共感と追体験を描く職業作家が、共感と追体験の不可能性へと辿り着いてしまうということが、逆に否応なく彼の悲しみの深さを浮き上がらせてしまうのだ。

人生の段階 (新潮クレスト・ブックス)

人生の段階 (新潮クレスト・ブックス)