シェイクスピア戯曲を演じる受刑者たち〜『塀の中のジュリアス・シーザー』

■塀の中のジュリアス・シーザー (監督:パオロ・タヴィアーニヴィットリオ・タヴィアーニ 2012年イタリア映画)


この『塀の中のジュリアス・シーザー』、「あのシーザーが刑務所に入れられた!」という映画ではもちろん御座いません。実際にム所に入れられている重犯罪者たちが、ム所内の演技実習でシェークスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」を演じることが決まり、そのオーディションから練習風景、そして舞台公演までを追ったドキュメンタリーなんですな。
舞台「ジュリアス・シーザー」を演じることになった堀の中の面々は、いずれ劣らぬツワモノばかり。その犯罪歴と刑期も凄みがあって、麻薬売買で刑期17年とか、累犯及び殺人で終身刑とか、組織犯罪で刑期14年6ヶ月とか、当然のことながら一筋縄の連中ではありません。犯した犯罪のダークサイドが顔つきにも滲み出ていて、苦み走ったコワモテぶりは、逆に舞台俳優として個性満々のキャラクターなのですよ。
作品では彼ら堀の中のコワモテたちの練習風景から舞台までの進行が、戯曲「ジュリアス・シーザー」の後半のストーリーの流れときちんとシンクロさせて描かれており、要するに練習風景を見つつも「ジュリアス・シーザー」のストーリー進行もきちんと理解できる、といった仕組みになっています。
シェークスピア戯曲「ジュリアス・シーザー」は読んだこと観たことはないのですが、調べるに、シェークスピアが当時のイギリスにおける王権継承についての政治不安を、古代ローマの政治不安に重ねて描いたものらしいのですな。それをこの『塀の中のジュリアス・シーザー』では、服役中の犯罪者たちの心に巣食う暗部を、シーザー暗殺を巡る葛藤と苦悩に重ね合わせて描こうとしているんです。だから映画では、受刑者たちが「ジュリアス・シーザー」の登場人物にあまりに感情移入してしまい懊悩する、なんていう一コマがあったりするんです。
しかし一見ドキュメンタリーとして制作されているこの作品、よく見るとドキュメンタリーらしさがないんですな。それは全体のカメラ位置、カメラワーク、きちんとしたライティング、受刑者たちが心情吐露するシーンの予定調和ぶり、そして個人的な心情吐露であるはずのそのセリフの立て板に水の流麗さ、から伺えるんですよ。さらにこの映画では受刑者たちの練習時間以外の個人的な様子や呟き、個々へのインタビューのようなものは全く拾われておらず、彼らは重犯罪者であり服役者である、という記号以上の存在としては扱われてはいないんですね。要するに最初からなにもかも膳立てされて撮影している、というふうにしかみえないんですよ。ドキュメンタリーのはずがシナリオのあるドラマに見える、ということなんですね。
しかしこの映画を嘘ドキュメンタリーと言いたいわけではなくて、実はこの映画、『「ジュリアス・シーザー」の舞台練習をする受刑者を描く物語を実際の受刑者を使って作った映画』という二重構造の作品なのではないのかと思うのですよ。つまり最初に書いた「ジュリアス・シーザー」の葛藤と苦悩の物語と受刑者たちの葛藤と苦悩とをオーバーラップさせて描くことが最初からテーマとしてあり、あらかじめそれに則ったシナリオに基づいて製作されたドラマなのだ、ということですね。
そういった意味でこれは「ジュリアス・シーザー」の新たな解釈に基づく映画化、と言えるのかもしれませんね。しかしそれならそれでドキュメンタリー"風"になんかせずに最初からそういった構造の物語として描いたほうが映画的な興奮は増したと思いますが、この作品ではやはりどうにも中途半端で言葉足りずのように感じました。

ジュリアス・シーザー (新潮文庫)

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