■無分別 / オラシオ・カステジャーノス・モヤ
「おれの精神は正常ではない、と書かれた文章にわたしは黄色いマーカーで線を引き、手帳に書き写しさえした」。主人公の男は、ある国家の軍隊による、先住民大虐殺の「報告書」を作成するため、千枚を越える原稿の校閲の仕事を請け負った。冒頭から異様な緊張感を孕んで、先住民に対する惨い虐殺や拷問の様子、生き残った者の悲痛な証言が、男の独白によって、延々とつづけられる。何かに取りつかれた男の正気と妄想が、次第に境界を失う。
エル・サルバトルの作家オラシオ・カステジャーノス・モヤの小説『無分別』はグアテマラ内戦に端を発した先住マヤ民族の大量虐殺事件を題材として書かれている。グアテマラ内戦は1960年から1996年まで続いた軍事政権と左派ゲリラとの内戦で、この間の死者・行方不明者は20万人に上り、そのうち先住民の含む割合は8割を超える数だったのだという。徹底的な拷問の末に虐殺したというこのジェノサイドは、さらに一部の先住民を教化し同じ先住民を襲撃させるという行為もなされ、その非人道的な行いの一部は小説の中でも触れられている。しかしこの小説は先住マヤ民族大量虐殺事件そのものを直接的に描くものではない。この虐殺事件の報告書を編集する仕事を依頼された主人公が、そのあまりに凄惨な内容に精神に変調をきたし、さらに未だ町を闊歩する軍部への密告と襲撃に怯え、次第に現実と妄想の境目を見失ってゆく、という物語なのだ。そして物語はそういった側面とは別に、主人公の女好き、その好色さも描かれはするが、それは主人公の生々しい人間性の肉付けであり、決してジェノサイドを糾弾するのみのスクエアな人間ではなく、誰もと同じように弱さを併せ持った存在であることを印象付けようとしたのだろう。この物語は、ジェノサイド・レポートという直接的な事実ではなく、それに触れた者の異常心理を描くことで、読者は事件の異様さへより心情的に関わる構造となっているのだ。それはまた、このジェノサイドが、マヤ先住民というドメスティックな存在のみに留まらず、誰の身にも起こりうる【恐怖】であり、それが人類の抱えた宿痾であるということをあからさまにしてゆくのだ。
- 作者: オラシオ・カステジャーノス・モヤ,細野豊
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■厳重に監視された列車 / ボフミル・フラバル
1945年、ナチス支配下のチェコスロヴァキア。若き鉄道員ミロシュは、ある失敗を苦にして自殺を図り、未遂に終わって命をとりとめた後もなお、そのことに悩み続けている…滑稽さと猥褻さ、深刻さと軽妙さが一体となった独特の文体で愛と死の相克を描くフラバルの佳品。イジー・メンツェル監督による同名映画の原作小説。
チェコ作家ボフミル・フラバルは映画化もされた『わたしは英国王に給仕した(映画タイトル:「英国王給仕人に乾杯!」)』の作者で、そちらのほうが有名かもしれない。この『厳重に監視された列車』も1966年に映画化されている。物語はナチ占領下時代のチェコの、とある鉄道員の日常と彼がかかわった事件を描くものだが、特徴的なのは主人公のイジイジグダグダしつつあっちへ転びこっちへ転ぶ思考の流れを文章化したような作風だろう。そしてナチ占領下のチェコ、という屈辱的な時代の空気は確固としてあるものの、この物語の大半で描かれるのは童貞君らしい主人公の性的不能の悩みと、それと対比的な彼の同僚のモテモテ振りへの嫉妬、そして上司である駅長の、上昇志向を持ちつつ上手く振る舞えない滑稽さだったりする。戦時下にありながら生々しく猥雑で、シモの心配ばかりしていて、奇妙に呑気。そういえば映画「英国王給仕人に乾杯!」もそういう物語だったな、とちょっと思い出した。実は最近チェコ映画をポツポツと観ているのだが、猥雑さと呑気さは同じく共通している。そういうお国柄なのか。だが後半、主人公とレジスタンスがかかわることにより、物語は一転暗い様相を帯び始める。そしてここで主人公が取った行動には、青年期特有の暴発的な情念が見え隠れする。『厳重に監視された列車』は戦時下のチェコの青春小説ということができるかもしれない。
- 作者: ボフミル・フラバル,飯島周
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