神は存在するか。〜 I 【アイ】 (1) / いがらしみきお

I【アイ】 第1集 (IKKI COMIX)

I【アイ】 第1集 (IKKI COMIX)

いがらしみきおの新作長編漫画『I【アイ】』は【神】を巡る物語だ。物語は東北の小さな町で生まれた二人の少年を中心に語られる。一人は中流家庭で何不自由なく育った少年・雅彦。もう一人は身寄りもなく浮浪者同然の生活を続ける少年・イサオ。雅彦は世界に違和感を感じながらそれでも親の敷いたレールに乗って常識的に生きようとしていた。そしてどこか知恵遅れのようにも見える少年・イサオは死に瀕した人、死を望む人の心と同一化する奇妙な能力を持っていた。遠い親戚同士だった二人は、あるきっかけから町を離れ、二人が立ち寄る様々な町に住む人々の、死と、それを巡る生のドラマに介入するようになる。

宗教やスピリチュアル的なものにどこまでも接近しているように見えながら、しかしこの漫画は決して既存の宗教体系や安易なスピリチュアリティを描こうとしているわけではない。この作品は、冒頭から、「自分はなぜここにいるのだろう?」というおそろしく始原的な問い掛けを繰り返す。自分たちはどこから来てどこへ行くのか。おそらくあらゆる宗教の根源とも言える問い掛けへの答えを、いがらしは、既成宗教の考えに頼ることなく、自らの言葉で、注意深く語ろうとする。それは、宗教の教義が形作られるその以前に、人が、まずその問いと、どう直面したのか、そしてどう答えを模索したのか、そのゼロの立場から語ろうとする姿勢だ。

いがらしは主人公の二人を通して死と生を描く。いがらしの描く死は決して忌むべきものではなく、逆に生は、あえてすがりつくべきものでもない、と言っている様だ。しかしこれは死を肯定し生を否定してるわけではない。単に、人は生き、死ぬだけのものだ、と言っているに過ぎない。人は、死ぬときは、死ぬものだ。しかし、それでは、この生とはなんなのか。【自分】という存在の殻の中だけで始まり、そして終わるだけの孤独な存在なのか。人は孤独なのか。救いはないのか。孤独な我々は、【この世界】と何ら繋がっていないのか。そしてもし繋ぐものがあるとすればそれはなんなのか。いがらしはここで、【この世界】と【自分】が繋がる瞬間を、ひとつの【神性】、まさしく【神】の顕現であることとして描く。

いがらしは物語の言外に「意識」と「無意識」を描き(「人の見ねえどごって?」「誰も見でねえどごさ」P267)、「存在」と「空間」を描き(「なあ。全部つながってっぺよ」P117)、そして「意識」が「存在」を【決定】する様を描く(「見ればそうなる」P219他)。そしていがらしは、【神】の「存在」を、【決定】されていない「無意識」の「空間」の中にあると説く。しかし物語は決して堅苦しく辛気臭いものではなく、逆にいがらしらしいホラーテイストなエンターティメントとして進行してゆく。そして東北の汚濁のような貧しさや野卑な人間関係を交えながら、実に泥臭く物語られるのだ。しかし、そのように見せかけにもかかわらず、その本質には、こういった非常に哲学的な命題を孕んでいるのだ。

かく言うオレ自身は宗教など信用していないし、この宇宙に神なぞ存在してたまるものかと思っている。人は孤独に生まれ孤独に死んでゆくものだろう。誰とも何とも繋がりたいとは思わない。オレはそういう果てしなく即物的な人間でしかない。だがそんなオレでさえ、この『 I 【アイ】』にはゾクゾクするものを感じた。この漫画は、ある種の【救い】を描きながらも、ある種の【救いようの無さ】も同時に描いている。そして一見救われたはずの人たちがバタバタと死んでゆく。だから死体もバンバン登場する。いがらしの残酷さは、現世で何がしか利益や幸福を得ることを善しとしない。

いがらしはただ、一瞬の【世界との同一感】こそに意味を見出そうとする。そしてその中で、生の意味と死の意味を探ってゆくのだ。いがらしの探求する【世界との同一感】とは、一瞬の刹那に降臨する【永遠】ということなのかもしれない。そしてそれこそが、【神】ということなのだろうか。この『 I 【アイ】』は、いってみればフィリップ・K・ディックの『ヴァリス』の如きConfession of Faithを描く作品なのだ。完結した暁には、いがらしみきおの最高傑作として語られる作品になると確信する。