TAR/ター (監督:トッド・フィールド 2022年アメリカ映画)
天才的女性オーケストラ指揮者を主人公に、素晴らしい才気を持ちながら多くの苦悩に直面する彼女と、様々な理由によりその地位から引き摺り落とされてゆく様とを描いた心理ドラマです。指揮者である主人公リディア・ターをケイト・ブランシェットが演じ、『イン・ザ・ベッドルーム』『リトル・チルドレン』のトッド・フィールド監督が16年ぶりに手掛けた長編作でもあります。
【物語】ドイツの有名オーケストラで、女性としてはじめて首席指揮者に任命されたリディア・ター。天才的能力とたぐいまれなプロデュース力で、その地位を築いた彼女だったが、いまはマーラーの交響曲第5番の演奏と録音のプレッシャーと、新曲の創作に苦しんでいた。そんなある時、かつて彼女が指導した若手指揮者の訃報が入り、ある疑惑をかけられたターは追い詰められていく。
冒頭のインタビューシーン、あるいは音楽大学における講義シーンで主人公ターが延々と語る、音楽とは何か、音楽を演奏するというのはどういうことか、という部分でまずグイグイと引き込まれます。文字通り首根っこを引っ掴まれるような感じで物語に没入させられるのです。
ここでまず主人公ターがいかに音楽を知り尽くした優れた人物であり、その世界で頂点を極めた存在であるかを知らしめられます。ここにおける説得力とターという人物の存在感は、本当にリディア・ターという人物がこの世界に実在しており、しかも目の前のスクリーンに映し出されているのがケイト・ブランシェットではなくリディア・ターその人であるとさえ思わせるほどです。ここで既に監督トッド・フィールドの有無を言わせぬ演出手腕と主演女優ケイト・ブランシェットの演技力の凄まじさを思い知らされてしまうんです。
その後に物語られるのは「究極の才能を持った者だからこその他への強い要求」と「そこから生まれる絶対的な強権」です。完璧を知り尽くした者は己と同じ完璧さを他者にも要求し、そこに妥協の余地がないからこそ絶対的で強権的な態度に出てしまうのです。もちろん天才的才能を持つ者が誰もが強権的ではあるという事ではありませんが、物語で描かれる主人公は一つの鋳型としてそのように振舞います。しかしこと「表現」の場にいる者が「民主主義的」であるべきなのかというと、そこには相容れないものがあるのではないかと思え、これをしてターの強権が「間違っている」と言い切れないとオレなどは感じます。
同時に描かれるのは「そのような強権的な立場にある者が得てして至ってしまう独善と専横、それにより生まれざるを得ない軋轢」です。天才的な才能を持つターですが、天才と聖人君主はイコールではありません。彼女は天才であると同時にあくまで人間であり、人間であるからこその偏向と歪みを他の人間と同じように併せ持っています。彼女は誰もと同じように嫉妬し、高慢となり、人を愛し、人を憎みます。彼女は誰もと同じように愚かなだけであり、それをして彼女を単純に「暴君」と呼べはしないと思うのです。
ただ一つ問題があったとするなら、彼女の強力な立場は、その影響力も強力である、ということであり、彼女はそれに対して無自覚であった、という事はできるかもしれません。これは即ちノブレス・オブリュージュと呼ばれること、つまり「身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務がある」ということです。彼女が至った陥穽はまさにそこにあり、また社会的に強力な立場だからこそその陥穽はスキャンダルとして大いに喧伝され、彼女を社会的に引き摺り落とそうとするマスメディアやSNSの餌食となってしまったのです。
映画はこれら様々な要素が複雑に絡み合った物語として完成しています。これはただ「正しい」「正しくない」の二元論として単純に断罪し結論付けられるものでは決してありません。ターは正しくもあり間違ってもいた。そして人間とは誰もが皆正しくもあり間違った部分も持ち、そういったレイヤーの総体にあるのが人間である、ということなのです。そして本当に重要なのは、間違ったことに気付いた時、気付かされた時、人間はその後どうするのか、ということに他なりません。それはこの物語のラストで鮮やかに語られることなのです。
また、オーケストラを題材としていることから膨大なクラシック音楽の蘊蓄と情報を知ることができるのも楽しいし、断片的とはいえ素晴らしいクラシックの調べが聴こえてくるのもポイントが高いです。監督トッド・フィールドの緊張感溢れる演出、それに十二分に応えたケイト・ブランシェットの剃刀の如き演技、なにもかもが重厚で迫力に満ち充実した映画です。本年度ベストテンの1作に数え上げても間違いない作品でしょう。
(解題にとても役に立つ監督インタビューです。是非お読みください)
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