『ストップ・メイキング・センス』と『アメリカン・ユートピア』/映画『アメリカン・ユートピア』

アメリカン・ユートピア (監督:スパイク・リー 2020年アメリカ映画)

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80年代の渋谷と『ストップ・メイキング・センス

トーキング・ヘッズデヴィッド・バーンがまたもや音楽映画を手掛けた、と知ったときは「どうしよっかなあ」程度の関心だった。デヴィッド・バーンで音楽映画と言えば『羊たちの沈黙』のジョナサン・デミが監督し1984年に公開された(日本では1985年)トーキング・ヘッズのコンサート・ドキュメンタリー『ストップ・メイキング・センス』である。

トーキング・ヘッズは1974年に結成され1991年に解散したアメリカのロック・バンドである。結成された当時はNYニューウェーヴ・パンクの括りだったが、いかにも学生バンド出身らしい知的にひねくれたセンスが話題を呼び、注目を浴びるようになる。バンドがブレイクしたのはブライアン・イーノがプロデュースしたアルバム『リメイン・イン・ライト』からだ。アフリカン・ビートを大胆に取り入れたその楽曲は絶賛を持って受け入れられ、一躍メジャーバンドの仲間入りとなる。その後アルバム『スピーキング・イン・タンズ』を経てリリースされたのがライブ・アルバムであり映画サントラでもある『ストップ・メイキング・センス』だった。

渋谷系」なんていう言葉があるが、オレにとっての「渋谷系」というのは渋谷の輸入レコード店で紹介される英米の最先端のロック・ミュージック・レコードのことだった。当時はタワーレコードのみならず、CISCO、WAVEなんていう輸入レコード店があり、オレはそこに足蹴く通いニューウェーヴ・ジャンルのレコードを漁っていた。渋谷でそういったジャンルのレコードを買うことがオレにとって「イケテる」ことだった(書いていてちょっと恥ずかしい)。そんな中でも『ストップ・メイキング・センス』は要注目作だった。1年後公開された映画も渋谷に観に行った。渋谷で『ストップ・メイキング・センス』を観るのがオレには「イケテる」ことだったのだ(スイマセン、ホントこっぱずかしいです)。

ただその後のトーキング・ヘッズのアルバムにはあまり興味が持てずに聴かなくなってしまい、オレにとって「渋谷」だの「イケテる」だのが黒歴史になってしまったように、『ストップ・メイキング・センス』自体も「当時の一過性の流行りで騒いでいた映画と音楽」として記憶を封印してしまっていた。とはいえ初期のトーキング・ヘッズの音源は性に合い、思い出した頃に引っ張り出して聴いていたりはした。

 その『ストップ・メイキング・センス』から36年を経て、トーキング・ヘッズのバンド・リーダーだったデヴィッド・バーンによるライヴを映像化をしたのがこの『アメリカン・ユートピア』となる。監督は『ブラック・クランズマン』のスパイク・リー。しかし自分としてはある種の黒歴史と化した「渋谷」「イケテる」「流行りもの」の記憶が蘇ってしまい、あまり近づきたくない映画だったのは確かだった。確かだったのだがしかし、これが実に評判がいい。そんなうちに連休が始まり、特にやることも観たい映画も無かったので、「じゃあもう『アメリカン・ユートピア』観るしかないじゃないか」と決意して劇場に足を運んだのである。

スパイク・リー監督作『アメリカン・ユートピア

映画が始まると映し出されるのはシンプル極まりないセットの舞台、シンプル極まりないライトグレイのスーツを着たデヴィッド・バーン、そのバーンを照らすこれまたシンプル極まりないライティングだ。楽曲が進むにつれ一人また一人とミュージシャンが増えるが、彼らもまたバーンと同じライトグレイのスーツを着て、各々の楽器を携えながらバーンと共に歌い、演奏し、ダンスをする。そのどれもがミニマルな演出に終始し、さすがにNYっぽいなと思わされるが、しかし楽曲は非常に表情豊かでその歌詞にしても複雑な含みを持ち、決してミニマルなものではない。 こうした演出をバーンは映画の中で「(歌い演奏する)人の顔に注目してほしかった」と語るが、確かにそれは成功していて、どのミュージシャンにしてもダンサーにしても、あたかも映画俳優の如くキャラクターが立っていたように思う。

面白いのは、例えばダンサーはゲイを思わせる男性と黒人女性であり、ミュージシャンたちは様々な国から集まってきた様々な人種の男女だということだ(とはいえアジア系がいなかったのだが……)。つまりは「多様性」ということであり、映画/舞台のタイトルでもある「アメリカン・ユートピア」の在り方を模索しようとする構成になっているわけだ(であればなおさらアジア系がいないのが不思議ではあるが)。さらに映画終盤ではブラック・ライブズ・マターを訴えるジャネール・モネイのプロテストソング「Hell You Talmbout」が歌われ、この映画/舞台のテーマがより一層明確になる(ただこの辺りは監督であるスパイク・リーも一枚噛んでいるのではないかと思わされた)。そして最後は(アメリカの)幸福な未来、すなわち「ユートピア」を夢想しながら幕は降ろされるのだ。

多様性とブラック・ライブズ・マター、さらに「移民」の出自を持つバーン自身と舞台メンバー、これらをテーマにすることは現代的であり普遍的な問題意識の在り方であり、そして十分にアメリカ的であるだろう。ただオレは個人的に、「ユートピア」の名を冠したことも含めて、インテリ白人デヴィッド・バーンらしい少々お利口さんな自己完結の仕方ではないかと思ってしまったのだ。音楽とダンスの高揚は強いポジティヴィティを生み、理想に満ちた未来を垣間見せるけれども、現実の複雑さは、ただそれだけでは変えようがないし、変わるものではないと思ってしまうのだ。

とはいえ、こういった「テーマ性」が本作の本質ではなく、むしろその音楽性の在り方、その構成の在り方が本作の本質ではないのだろうか。本作の演出のもうひとつの特徴はマーチングバンド風の楽器構成だが、これが、ダンサー2名、ギター/ベース/キーボードそれぞれ1名、それに対しパーカッションがなんと6名もいるのである(曲によって変更あり)。これは持ち運びのできない大構成のドラムセットを6人に分担したという事もできるが、そもそもがリズム・セクションの重要性を意識した結果なのではないのか。

思えば、アンダーグラウンド・パンクバンドだったトーキング・ヘッズがメジャーに躍り出たのがアフリカン・リズムを大規模に導入したアルバム『リメイン・イン・ライト』からだった。実は当時、これはブラック・ミュージックの剽窃、要するに「美味しいところだけをちゃっかり戴いてさも自分のもののように演じる」ものとして批判を浴びていたのだ。今で言う「ホワイト・ウォッシュ」に近いものだ。

当時オレ自身は判断保留にしていたが、しかし『アメリカン・ユートピア』におけるパーカッション構成の在り方を見るにつけ、バーンは決して付け焼刃の剽窃をしたのではなく、アフリカン・リズムも含めたリズムに強く意識的であろうとし、自らの音楽の血肉にしようと画策した結果なのではないかと思えたのだ。それは同時に、ブラック・ミュージックへのリスペクトということなのではないのか。 そのリスペクトはひいてはアフロ・アメリカンへのリスペクトに通じ、「アメリカン・ユートピア」へのひとつのきざはしを示しているのではないか。

……とかなんとか小理屈をダラダラ並べたが、実際映画を観ていた最中は音楽とそのパフォーマンスに感激して涙チョチョギレておったのが正直なところである。素直に言おう、これは最高にカッコイイ音楽映画だったと。映画で「ヒート・ゴーズ・オン(ボーン・アンダー・パンチズ)」の演奏が始まったとき、オレ興奮のあまり映画館の座席で「うおおお!」って唸っちゃったよ!あとライヴのハイライトは絶対「ワンス・イン・ナ・ライフタイム」だと思ったね!なんだよ結局オレ『リメイン・イン・ライト』大好きなんじゃんかよ!

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