プラハの墓地 / ウンベルト・エーコ (著)、橋本 勝雄 (訳)
知の巨人、ウンベルト・エーコ待望の最新刊。ナチスのホロコーストを招いたと言われている、現在では「偽書」とされる『シオン賢者の議定書』。この文書をめぐる、文書偽造家にして稀代の美食家シモーネ・シモニーニの回想録の形をとった本作は、彼以外の登場人物のはほとんどが実在の人物という、19世紀ヨーロッパを舞台に繰り広げられる見事な悪漢小説(ピカレスクロマン)。祖父ゆずりのシモニーニの“ユダヤ人嫌い"が、彼自身の偽書作りの技によって具現化され、世界の歴史をつくりあげてゆく、そのおぞましいほど緊迫感溢れる物語は、現代の差別、レイシズムの発現の構造を映し出す鏡とも言えよう。
ウンベルト・エーコといえば『フーコーの振り子』、映画化もされた『薔薇の名前』などの作品で有名なイタリアの作家・文芸評論家・記号学者である。ヨーロッパ史と宗教学にまつわる膨大な知識に裏打ちされた幾つかの物語は、あたかも迷宮のように幾重にも折り重ねられた重厚なプロットを持つ歴史ミステリーとして絶賛されている。
とはいえ、かくいうオレは著作としては『フーコーの振り子』を読んだだけなのだが、その圧倒的な情報量を咀嚼して読むことがまかりならず、相当苦労し疲労しながら、ようやく読み終えた記憶がある。楽しめたといえば十分楽しめたのだが、作者の提示したものの3分の1、4分の1も理解していないような、なんとも情けない読後感ではあった。
そのオレが再びフーコーに挑戦しようと思ったのは、古本で安かったのと、以前の苦労をほとんど忘れてしまったという学習能力のなさがその所以である。そしてようやく読み終えたのだが、いやあ……やはり歯応えがありすぎて「オレの知力の限界を超えているよ!」と泣きが入ってしまったことを正直に告白しよう。しかし、『フーコーの振り子』の時と同様に半分も理解できたかどうかではあるが、それでも十分に楽しめる作品だったのだ。いや、理解は足りてないけどね!
『プラハの墓地』は19世紀中期~末期ヨーロッパを舞台に、実際に存在する『シオン賢者の議定書』という書物のその来歴をフィクショナルに描いた作品となる。『シオン賢者の議定書』とは何か。それはユダヤ人による世界征服の目論見が書き記された書物だ。ユダヤ人長老らがその恐るべき陰謀を企んだ場所が「プラハの墓地」であるということなのだ。実際の所、これは陰謀論から生まれた偽書なのだが、しかしこの書物に書かれた陰謀を当時のヨーロッパ社会はまともに受け取り、ヒトラーによるユダヤ人虐殺の切っ掛けになったともいわれる恐ろしい書物なのである。
物語内でこの『シオン賢者の議定書』の大元となった文章を書いたとされるのが本作の主人公シモーネ・シモニーニだ。このシモニーニ、文章偽造を生業とする小悪党であり、偏見と不信に凝り固まり、あらゆるものを見下し憎しみの対象にする、歪んだ性格を持った冷血漢なのだ。当然ユダヤ人を心の底から忌み嫌っており、その性癖が後に『シオン賢者の議定書』となる文章を書かせることになるわけである。すなわちこの物語はまずピカレスクロマンとしての側面を持つ。
卑しい小悪党の書く文章がなぜ流布することになったのか。それは文章偽造家の彼が政府の諜報機関に重宝されたからであり、国家間や対立組織に不信や疑惑を生み出すために書かれた偽文章の一つが、ユダヤ人差別を煽動するものであったのだ。物語ではイタリアやフランスでシモニーニが関わる諜報にまつわる薄汚い裏稼業、さらには殺人までが描かれ、まさに「外套と短剣」そのものの間諜物語が展開するというわけである。そう、実はこの作品、スパイ小説としても楽しめるのだ。
もう一つの側面は歴史小説としての部分だ。なんとこの作品、主人公シモニーニ以外の登場人物は全て実在の人物であり、描かれる事件も史実に基づいているのだ。それら歴史上の事実、実際の歴史の流れの中に巧妙にシモニーニの行動を配し、それらの点がひとつの線として結び合わさったときに、未だ謎とされる『シオン賢者の議定書』の創作者の姿をフィクショナルに浮かび上がらせるというのが本書なのである。シモニーニの存在が架空であるとはいえ、まさにこのように書かれたのではないかと思わせてしまうのだ。
さらにはフリーメーソンの秘儀や反キリストの怪しげなサバトを描くオカルト小説であり、当然陰謀論についての小説でもある。そしてそれらを通し「ヨーロッパの中のユダヤ差別」を浮かび上がらせるゆく。こういった様々な側面を綿密に構成しながら蘊蓄をもって描き切るのが本作であり、物語の醍醐味となるだろう。
苦労させられたのは物語の背景となる19世紀ヨーロッパの歴史、政情、重要人物名がオレの頭にまるで入っておらず、これらが知っていて当然のこととして物語が進行するために、読んでいてしょっちゅう「今何が起こっているの?」と面食らわせられた部分だ。もちろんオレの知識の浅さの問題である。例えば19世紀中期イタリアはまだ一個の国家として統一しておらず戦争状態であったこと、同様にフランスもまた政治的混乱にあったことなど、オレはまるで知らなかった。さらにカトリック、フリーメーソン、ユダヤ人社会、ヨーロッパ各国の思惑などがどのように絡み合いお互いを牽制しあっているのかを理解していなかったので、これも読んでいて苦労させられた。
とはいえ、「ヨーロッパにおけるユダヤ人差別」がどのように存在しどのように熟成されていったかを目の当たりにするのはなかなかに心胆寒からしめるものがあった。ユダヤ人差別は宗教的な面における対立、経済的な面における妬みなど様々な要因があるが、そもそもが十字軍遠征まで遡るものであるという。単に「ユダヤ人」という分かり易い外部を敵視することで己のさもしい自意識を優位に保つという部分もあるのだろう。
それら歴史の中で連綿と続いた差別と侮蔑の集積が、ホロコーストという名の大殺戮へと導かれた、と考えるなら、実はホロコーストを巻き起こしたのはナチスドイツというファシズム国家のみの所業なのではなく、ヨーロッパ史の中で醜い肉腫のように成長していったユダヤ人差別というものの集約点が、あのホロコーストだとも考えられるのだ。ヨーロッパにおけるホロコースト・トラウマというのは、鬼畜の如き大虐殺の悲惨さのみによるものではなく、それが「自らも遠回しに手を下した」という自責がどこかに存在するからなのではないか、とそんなことも考えた作品だった。