ホロコーストを乗り越えた未来にあるもの〜映画『イーダ』

■イーダ (監督:パヴェウ・パヴリコフスキ 2013年ポーランド/デンマーク映画

I.

この間観たポーランド映画『パプーシャの黒い瞳』(レヴュー)に非常に感銘を受けたので、何か他にもポーランド映画を観たいと思い探してみたら見つけたのが2013年のポーランド/デンマーク合作映画『イーダ』。『パプーシャの黒い瞳』と同じくモノクロ映画なのだという。ポスターなどに写るのは修道女姿の年若い女性。いったいどんな物語なのだろうか。

1962年、社会主義時代のポーランド。主人公の名はマリア(アガタ・チュシェブホフスカ)。戦争孤児として修道院に預けられた彼女は、いよいよ修道女の宣誓式を受ける18歳となったある日、実は唯一の肉親である伯母が生存していることを知らされ、会ってくるようにうながされる。その伯母ヴァンダ(アガタ・クレシャ)はかつて名うての検察官だったが、今は酒と情事に溺れる女だった。マリアはそんなヴァンダに、あなたはユダヤ人で、本当の名前はイーダなのだ、と告げられる。イーダの両親にいったいなにがあったのか。二人はイーダの両親の足跡を辿る旅に出るが、そこで明らかになったのはホロコーストが引き起こした痛ましい悲劇だった。

II.

いずれ修道女になる無垢な少女と、中年のどこかやさぐれた元女性検察官。映画『イーダ』はこんな奇妙な組み合わせの二人によるロードムービーだ。ヴァンダはいつも酒をあおり煙草をふかし、皮肉めいた口調で喋る女だ。だが事実を掘り起こそうとするときには、あたかも猛禽類のように標的に飛びかかってゆく男勝りな側面もある。元検察官という職業だったからだろうと最初思っていたのだが、実はイーダの両親が消えた事件には、ヴァンダの息子を巡る暗い過去も秘められていることが明らかになってくる。

一方イーダは、最初そんなヴァンダに居心地の悪いものを感じている。まあ修道女になるという女性なのだから、世俗と悪徳に塗れたヴァンダを、時折非難したり衝突したりする。しかしお互いの目的に近づいてゆく中、二人の心は次第に一つになる。それも、ホロコーストの恐ろしい事実、という最悪の理由によってだ。さてイーダとヴァンダはその道行きの中、一人の青年ヒッチハイカーを車に同乗させる。彼はミュージシャンであり、この彼とイーダとの仄かな恋も物語で描かれる。それは神に仕える仕事と俗世との間で揺れ動く気持ちでもあるのだ。

モノクロ映像の非常に美しい作品なのだが、しかしその構図の取り方が一種異様なものであることを段々気付かされることになる。なにしろ、主要人物がいつも画面の下や隅に写っていて、残る上半分は何もない空間が写されているのだ。スタンダードサイズの画面なのでこの余白が余計目立ってしまう。喋っている登場人物の顔半分が切れていることもままあり、いわゆるイマジナリーラインというヤツも時々外しているように見える。この奇妙な構図の取り方はなんなのだろう、と観ているほうは段々と不安になってくる。普通の映画の撮り方ではないのだ。

III.

この物語は「過去を何も知らず生きていた無垢な少女」が、「過去を背負い現実に染まり切った中年女」と「過去の真実」を知ってゆく、という物語構造を成している。その「過去の真実」とはホロコーストの悲劇であり、その時ポーランド人が選択した忌まわしい罪業である。ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺はよく知られているが、実はナチスに占領されたポーランド民もまた、ユダヤ人狩りを行っていたのだ。ホロコーストが巻き起こした惨劇には枚挙が暇ない。だが、この物語はそういった「過去の真実」を描きながらも、実はそれ自体が主題では決して無いのだ。

「過去の真実」を知った時、中年女ヴァンダは深い悲しみの中で自壊してゆく。それはヨーロッパの持つ歴史性の重圧に押し潰された古い世代のヨーロッパ人を代表してるのだろう。しかし、無垢であり若い世代であるイーダは、それら重苦しい「過去の真実」を知りつつも、「自分の明日」という一歩を踏み出そうとする。思えば、イーダが「修道女(見習い)」であるという設定は、キリスト教=ヨーロッパの歴史性という古いドグマの中にありそれに縛られようとしている存在であるという意味なのだろう。だがクライマックスにおいてイーダは神に仕える者から一歩踏み出すことから、旧弊なドグマから逃れようとしているように見えるのだ。

こう書くと語弊があるかもしれないが、自分は、ホロコースト映画はもう沢山だ、と思っている。それは決して忘れてはならない過去の過ちであり教訓であり、語り続けられなければならないものなのだろうけれども、しかしそればかりにこだわる映画がどうしてまだもてはやされるのか、それは単なる「ホロコーストの消費」に過ぎないのではないかと思えてしまう。もうそればかりを語り続けるのではなく、そんな過去のあった現在の迎える、「明日」の話があってもいいのではないか。ヨーロッパの若者たちが、過去を乗り越え、「明日に何を求め、どう生きるか」を描いてもいいのではないか。

映画『イーダ』はそうした、ホロコーストとそれを検証した近代の、さらにその先の未来に手を触れようとする作品に思えるのだ。そして、作中常に不安定だった構図は、ラストになってイーダ本人を力強く捉えてゆく。これは、イーダが、彼女自身の人生をやっと取り戻したことのしるしなのだろう。そして、この物語は、ヨーロッパの歴史性から距離を置き、あくまで個人であろうとしたイーダの姿も垣間見える。映画『イーダ』は、端正なモノクロの映像で描かれながらも、実はとても新しい感性を持った作品なのだと思う。