叙述トリックめいたシナリオのあざとさ〜映画『手紙は憶えている』

手紙は憶えている (監督:アトム・エゴヤン 2015年カナダ・ドイツ映画)


認知症を患い人生に残された時間もあと僅か、という90歳の老人が、たった一つやり残したことを遣り遂げる為に養護施設を抜け出した。彼の名はゼブ。ゼブの遣り残したこと、それは家族を殺した者への復讐。ゼブはかのアウシュビッツ収容所の生き残りであり、そこでナチスに家族を皆殺しにされたのだ。養護施設で出会った彼と同じ収容所の生き残りの男は、一人のアウシュビッツ職員の名が記された手紙をゼブに託した。その名前はルディ・コランダー。こうしてゼブの復讐の旅が始まる。
第2次世界大戦におけるナチス・ドイツの爪跡を描く映画作品は枚挙に暇がない。特にアウシュビッツを始めとする絶滅収容所に関わる物語は、その惨たらしさと痛ましさから様々な問題作を残した。自分はやっぱりスピルバーグの『シンドラーのリスト』が一番好きかな。アウシュビッツからは離れるが、ポーランド将校大量虐殺事件を描いた『カティンの森』(2007)も臓腑を抉るような作品だった。そして大戦が終わり、せっかく生き残った人々の中にも悲しみや怒りはいつまでもくすぶり続ける。これらポスト・ホロコースト作品としては自分には『イーダ』(2013)がとても心に残っている。映画『手紙は憶えている』はこの、ポスト・ホロコースト作品の一つとして数え上げられるだろう。
戦争により家族全てを奪われることの怒りや悲しみは自分の想像を超えるものだが、しかし、映画を観て思ったのは、90歳になり、平和となった時代にそれなりの生活を手に入れ、子を成し多分孫もいるのだろう老人が、その最期の時に復讐だけを胸に秘めて行動するのだろうか?ということだ。戦後70年余りが経ったとはいえ、その70年で怒りも悲しみも決して消え去ることはないとは思う。だが、その戦後の70年にあった人生全てが怒りと悲しみだけだった筈はない。ましてや殺人まで決意した復讐となると、これはもう妄執に近い意志の強さだ。それは鬼の行為である。だがしかし、認知症にまでなった老人が妄執に塗れた鬼とはどうしても思えないのだ。
そして、主人公ゼブが認知症であり、記憶が殆ど覚束なくなっている、ということだ。ゼブは妻が亡くなったことすら覚えておらず、劇中何度も死んだ妻の名を呼ぶシーンがある。認知症と記憶障害は違うものだが、自分が復讐をしようとしていることすら忘れてしまう老人の復讐、というのはいったいなんなのだろう?この「記憶障害を持つ男の復讐劇」として、2009年に公開されたジョニー・トー監督作品『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』、さらに映画『pk』の主演でもあるアーミル・カーンが主演を務めた『Ghajini』(2008)あたりを思いだすが、あの「ジェイソン・ボーン」シリーズもその範疇に入るのだろう。
しかし、記憶障害すら乗り越え悪党に鉄槌を下そうとするその執念の凄まじさには息を飲まされるものがあるとしても、これら作品の巌窟王の如き復讐鬼となった主人公と、『手紙は憶えている』の主人公ゼブとは質が違うように思う。むしろゼブには、収容所での憎しみを乗り越え、戦後70年の間に体験した幸福だけを噛み締めながら生きるべきだったのではないのか。いや、別にこれは実際の戦争被害者に対して思うことではなく、映画というフィクションの中の主人公の心理に、なにかリアリティを感じないということなのだ。
ナチス・ドイツという人類史上稀に見る絶対の悪役を掲げることで、映画というフィクションは大いに正義の行動を描くことができるようになったが、個人的な感想としては正直ナチスの極悪さばかりを見世物にする映画作品にはどうにも食傷してしまったのも確かだ。確かに大量虐殺の惨禍は決して忘れるわけにはいかないとしても、その悲惨を乗り越えて何を見出し、何を作り上げてきたのか、戦後70年の、ポスト・ホロコースト時代に描かれるべきなのはそういった作品なのではないのか。そういった部分で先に上げたポーランド/デンマーク映画『イーダ』には大いに感銘を受けたが、この『手紙は憶えている』から感じたのは叙述トリックめいたシナリオのあざとさだけだった。ああ、シナリオライターはアメリカ人なのか、なるほど。
http://www.youtube.com/watch?v=GY_iEUCv2HQ:movie:W620

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