「自分は誰で、何に属するものなのか」という民族アイデンティティ〜映画『パプーシャの黒い瞳』

■パプーシャの黒い瞳 (監督:ヨアンナ・コス=クラウゼ/クシシュトフ・クラウゼ 2013年ポーランド映画

I.

「ジプシー」という言葉を初めて聞いたのはいつだったか、それは漫画や映画の中だったろうか。住む所を持たず、ヨーロッパの国々を馬車に乗って移動し、なにやら怪しげな風体で、かっぱらいや人さらいをすると怖れられ忌み嫌われ、そしてその中には必ず鉤鼻の占いババアがいて、神秘な予言を告げる、そんなステレオタイプなイメージがずっと頭の中にあった。いつしか彼らが、大昔北インドの住人だったものがヨーロッパへ流れてきた存在であること、本来はロマ族という民族であること(正確にはジプシー全てがロマ族ではない)、第2次世界大戦においてナチスドイツに大量虐殺されていたことなどを知るようになった。だがそれでも、本当のジプシーのことを、オレはよく知らない。

映画『パプーシャの黒い瞳』は、第2次世界大戦前後のポーランドを舞台にした、ひとりの実在したジプシー女性の生涯を追ったドラマである。彼女の名はブロニスワヴァ・ヴァイス(1910-1987)、愛称はパプーシャ(ヨヴィタ・ブドニク)。書き文字を持たないと言われるジプシーの一族に生まれながら、彼女は文字に興味を持ちそれを覚え、いつしか詩を書くようになっていた。そんなある日、彼女のいるジプシー野営地に、ひとりのポーランド人男性がやってくる。彼の名は作家で詩人のイェジ・フィツォフスキ(アントニ・パヴリツキ)。彼はジプシーたちと過ごし始めるが、パプーシャの類稀な詩の才能に気づき、それを出版しようと奔走する。やがてパプーシャの詩は本となりポーランド中の注目を集めるが、ジプシーの長老会議は、それをジプシーの秘密を暴いた許されざるべき行為としてパプーシャを糾弾する。

II.

ポーランドの鬱蒼とした自然、その黒々とした木々の梢、ジプシーたちの喜怒哀楽に満ちた暮らし、または雪の中を進むジプシーの馬車、そして第2次世界大戦前後のヨーロッパの寒々とした空気感、映画はこれらを、端正なモノクローム映像を使い、ブリューゲル絵画を意識したというロング・ショットで映し出す。あたかもこの時代へとタイムスリップしたかと思わせるようなその緻密な映像は、実はオプティカル合成も使用した技巧的な風景なのだ。それにより映画はときとして超現実的とさえ思わせるような迫真の美しさを輝かせる。観る者はまずこの映像の美しさで作品世界の虜となるだろう。モノクローム映像の説得力と迫力をしみじみと感じさせる破格の映像なのだ。

その中で描かれるのはひとりのジプシー女性の数奇な運命である。ジプシー集団の中でただひとり言葉を覚え、詩を書いた彼女は世間の注目を浴びるが、それと同時に、ジプシー仲間から疎外されることとなってしまうのだ。それ以前に彼女は、若くして父親のような年齢の男との望まぬ結婚、迫りくる大戦の不安、さらに極貧の生活の中で暮らしていた。その中で彼女が詩という形で言葉を紡いだのは、ともすれば圧殺されそうな日々からの逃避であり、もしくはそんな貧しさの中でも生きていけることへの喜びと感謝であったのだろう。言葉を知ることは、世界の輪郭を掴むことである。そしてその言葉を使うのは、世界の輪郭を表現することである。それは、世界を知る、ということなのだ。彼女は圧倒的に知的な女性だったに違いない。にもかかわらず、その言葉を封印されるということは、どれほど残酷なことだったろう。さらにここには、世間から差別されるジプシーという集団のなかで、更に女であることから差別される、痛ましい2重の差別構造が存在していたのだ。

III.

それにしても、そもそもなぜジプシーの長老たちはパプーシャの詩ごときでいきり立ちあれほどまでに彼女を攻め立てなければならなかったのだろう。パプーシャの詩は、ジプシーの女として生きることの哀歓を描いたものであったけれども、それが即ち「ジプシーの秘密を世にばらまいた」ことになるのだろうか。この極端ともいえる閉鎖性はなんなのだろう。それを考えると、ジプシーというものの特殊性が垣間見えてくるような気がする。極端な閉鎖性、というのは逆に見るならジプシー一族の強固な団結性、強力な同族意識の賜物であるということは言えないだろうか。数百年に渡るヨーロッパ流浪の中で、彼らは生きるために強い結束力を持たねばならならず、それはまた強い排他性を生み出したのだろう。しかしそこまでしてなぜ定住することを拒み流浪を続けたのか。

ジプシーは現在ヨーロッパに1千万人が生活しているとされ、戦後は国により定住化が推し進められてきたが、EU成立による交通の自由化で、それまで多く住んでいた貧しい東ヨーロッパから、富裕な西ヨーロッパへ大移動がなされているという。西ヨーロッパではジプシー移住による治安悪化が相当な問題とされ、それと同時にジプシーたちの差別問題、貧困問題も深刻化している。そこにはジプシーへの偏見もあるのだけれども、もうひとつの理由として、ジプシーたちがあくまで異民族であることに固執し、頑固に同化を拒む態度にあるのかもしれない。彼らに道徳がないのではなく、彼らは彼ら民族の道徳規範に従っているだけなのだ。だがこれは彼らがジプシーであることを捨て、同化すればそれで済む事なのか。そして、たとえ周囲に受け入れられ、経済的に恵まれたとしても、彼らは自らがジプシーであることに固執するだろう。

これは、ジプシーに限らず、どんな民族であろうと持つ、「自分は誰で、何に属するものなのか」という民族アイデンティティの問題なのではないか。かつてイスラエルが建国されたとき、そこに集まったのは、自らをユダヤの民と自認しながらも実質的にはさまざまな民族的・国家的背景を持った人々だった。しかし彼らにとって重要だったのは「自分は誰で、何に属するものなのか」ということだったのだ。人は、自らが寄る辺とするアイデンティティが無ければ生きていけない弱い存在だ。しかし、その強固な同族意識の中で、「言葉」という禁じられた果実を食べてしまったパプーシャは排斥される。彼女はジプシーである前に自分であろうとしたから罰せられたのだ。だが、自分であろうとすることがなぜ罪なのだろう?では彼女はどう生きればよかったのだろう?こんな答えの出ないやるせなさがこの物語にはある。