続・ボラット 栄光ナル国家だったカザフスタンのためのアメリカ貢ぎ物計画 (監督:ジェイソン・ウォリナー 2020年アメリカ映画)
まずは映画『ボラット』のコンセプトのおさらいなのだ
お騒がせ俳優サシャ・バロン・コーエン主演による2006年の映画『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』は壮絶な大爆笑大馬鹿映画だった。そしてその14年後となる2020年、続編となる『続・ボラット 栄光ナル国家だったカザフスタンのためのアメリカ貢ぎ物計画』がアマゾンプライムで公開されることとなった。そしてこれがまたまた度を越した大馬鹿映画でオレは大いに笑い大いに気に入った。去年もっと早く観ていたら年間ベストテンの上位に絶対入れていたであろうぐらい面白かった。
この『続・ボラット』の話をする前にもともとの『ボラット』1作目のコンセプトをおさらいしてみたい。主人公ボラットは(映画の中の仮想の)カザフスタンからアメリカにやってきたジャーナリストだ。このボラット、とんでもない差別と偏見に塗れ、おまけにやることなすこと下ネタに結びつける、トンチキ極まりない勘違い野郎だ。その下品で下劣な行動と言動により人々を呆れさせ激怒させ困惑させながらアメリカ大陸を縦断するという、もはや疫病レベルに迷惑なキャラクターを描くのが映画『ボラット』なのである。しかもこれ、モキュメンタリーという形で実際に素人を弄ってるのだから始末に負えない。
「差別と偏見に塗れた知性の低い田舎者」は誰なのか
しかしそんなサイコパスじみた男の行動がなぜここまで笑えるのかというと、サシャ・バロン・コーエンがあえて「差別と偏見に塗れた知性の低い田舎者」を演じることによって、実は彼の眼にいる人間の「差別と偏見に塗れた知性の低い田舎者ぶり」を炙り出してしまうからなのだ。同時に、「差別と偏見に塗れた知性の低い田舎者」を面白おかしく演じることにより、「差別と偏見に塗れた知性の低い田舎者」を笑いものにしているのである。
そしてボラットが笑いものにするのは「アメリカ」という国に遍在する愚か者でありその差別と偏見の在り方だ。それをカザフスタンという辺鄙な(つまりは田舎者の)異国の出身者という立場から嗤う。「俺の国もクソ馬鹿田舎っぺ国家だかあんたの国アメリカも相当なクソ馬鹿田舎っぺ国家だな!」という訳だ。バカがバカに嗤われたらぐうの根も出ない。それを実際はイギリス出身の、しかもケンブリッジ卒インテリであるサシャ・バロン・コーエンが演じるのである。これはもう実は周到に戦略化された知的な笑いという事なのだ。大いに下品だけど。
そして『続・ボラット』なのだ
そしてこの『続・ボラット』である。今作でボラットは、アメリカ大統領トランプに貢ぎ物をし、媚びを売る命令を受ける。その貢ぎ物は最初文化大臣お猿のジョージだったのだが、アメリカに着いてみるとボラットの娘トゥーターに変っていた。ジョージはトゥーターに食べられていたのだ。ボラットは困惑した。なぜならカザフスタンでは女には人権も知性もないとされており、若い娘は檻に入れて獣同然に扱う風習になっていたからである。だがボラットは娘トゥーターを副大統領のマイク・ペンスに貢ぎ物にすることを思いつき、獣のようなトゥーターをレディへとグレードアップさせることにしたのだ。
(ところでなぜ貢ぎ物の相手がトランプから副大統領に変ったかというと、ボラットが前作でトランプ・タワーの前で野グソをしていたことを思い出し「こりゃマズイ」となったからである)
前作より若干おとなしめになったとはいえ、今作でもボラットの迷惑野郎振りは変わっていない。オレも映画を観ながら「うわ、それやっちゃうのか!?」「あちゃー!ホントにやっちゃったよ!?」と阿鼻叫喚の連続であった。そして今作のターゲットはトランプ陣営であり、トランプ支持者であり、Qアノン信奉者である。副大統領マイク・ペンスのみならず、トランプ側近であるルディ・ジュリアーニまでもが餌食にされる(この作品はトランプ政権下で撮影され、2020年アメリカ大統領選直前に公開された)。
女性差別を徹底的に笑いのめすプロット
しかしこういった多大に政治的な側面については、オレは野次馬根性的に楽しみはしたが、してやったりとは特に感じはしなかった。トランプがろくでもない大統領であり、ついこの間起こった米議会乱入事件を見ても分かる通りトランプ支持者がアレなのは十分に分かるのだが、日本に住む者としては多大にドメスティックな問題ではあると思えてしまうからだ。
それよりもこの作品で注目したのはまず、ボラットの娘トゥーターを通して描かれる、女性差別/女性蔑視を徹底的に笑いのめすプロットだ。そもそもトゥーターが「アメリカの有力者への貢ぎ物」にされるお話自体が相当にヒドイが、普段でさえ鉄球付きの鎖を足に付けられ動物用のエサ皿で食事をさせられている。しかし彼女はそれが当たり前だと思っているのだ。
さらにボラットの国であるカザフスタンでは女性に対し、女という存在はいかに劣っているかを洗脳教育しており、おまけに「おそそに触るとおそそに食べられてしまう」とか訳の分からない性教育までしている始末だ。トゥーターも最初それを信じていたが、アメリカに渡ることでそれが嘘であることを知ってしまう。これらはグロテスク極まりない笑いで描かれるが、しかしこのグロテスクさこそが、女性差別そのものの姿である事を物語はあからさまにしてゆくのだ。
じわじわと迫り来るコロナ禍の恐怖
そしてこの作品で最も心胆寒からしめたのは、この作品がまさにアメリカで新型コロナによる災禍が巻き起こっているその最中に撮られたものであるという事だ。調べるとボラットが保守政治活動協議会に乱入する部分の撮影は2月。ワシントンでの保守派集会でボラットが人種差別まみれの歌を歌ったのは6月。ジュリアーニとの偽インタビューシーンは7月。最終的な撮影終了は9月であったらしい。実はこの間、画面に映っていたアメリカ人の殆どがマスクをしていない。マスクをしないのが保守派陣営なのだとしても、一般の街並みですら見られない。
アメリカでは2月の段階で確認された感染は少なかったが、6月では平均感染者が2万人から3万人、7月では6万人超、9月に一旦4万人前後まで落ちるが、11月からは10万人越えの大災厄へと発展している。つまりこの『続・ボラット』はアメリカで新型コロナが猛威を振るい出す直前に撮影開始され、感染拡大中のその最中に撮られ、それが大爆発を起こす直前に編集されたのだ。そしてその最中のアメリカの街並みと人々を写し、その時のアメリカの空気感を真空パックさせたドキュメンタリーフィルムという見方もできるのだ。
映画ではクライマックスに新型コロナに関わるとんでもない事実が発覚する事となるが、これは当初の企画段階では無かったものとみていいだろう。当初はトランプ陣営を徹底的にこき下ろすのみの作品だったのかもしれない。しかし、新型コロナの流行はそのシナリオを変更せざるえないものとした。物語が終盤から急にバタバタし始めるのはそのせいだと思っていい。そして結果的に、偶然にも「アメリカに新型コロナが上陸して猛威を振るい災禍へと発展した2020年の光景」を描く作品となった。そこにこの作品の凄みがあると思うのだ。