■Madaari (監督:ニシカント・カマト 2016年インド映画)
政府要人の息子が誘拐された。犯人の目的はなんなのか?やがてある悲痛な事件が背後にあったことが明るみに出る。2016年にインドで公開された映画『Madaari』は、誘拐事件を通して社会の不正を訴えようとした物語だ。
存在感に溢れた誘拐犯を演じているのはイルファン・カーン、ハリウッド映画でも大活躍する彼に説明は必要ないだろう。そういえば今作のクレジットでは「Irrfan」という名前だけだったけど名前変えたのかな?彼を追う警官役はジミー・シャーギル、『Traffic』(2016)にも出てたよね?とか思いつつバイオ調べたら『Bang Bang!』(2014)にも『Tanu Weds Manu』(2011)にも『マイ・ネーム・イズ・ハーン』(2010)にも出てんじゃん!今度こそ名前覚えます。そして監督はニシカント・カマト、彼の作品は『Drishyam』(2015)と『Lai Bhaari』(2014)を観たぐらいだが、どちらも相当面白く、今作もちょっと期待して観てみた。
物語は、なにしろ誘拐事件だ。内務大臣の10歳になる息子、ローハン(ヴィシェシュ・バンサル)が誘拐されたのだ。動揺する父、泣き崩れる母、捜査に乗り出す警察、騒ぎ立てるマスコミ。しかし、待てど暮らせど犯人からは何の要求もない。身代金要求も、脅迫も、犯行声明も、何もない。ローハンは生きているのか死んでいるのか?焦りばかりが関係者を苛む。さて、その誘拐犯人は誰か。それはニーマル(イルファン・カーン)という男だった。彼は用意周到に誘拐を成功させ、その後誘拐したローハンを僻地に連れまわしていた。そして遂に、ニーマルは内務大臣へとメッセージを送る。それは、ある償いの要求だった。
という訳で犯人ニーマルが誘拐事件を起こした訳が明かされるわけだが、具体的な内容については伏せておこう。最初に書いたように、ある悲痛な事件と、その要因となった社会の不正が元になっている、とだけ書いておこう。そもそも誘拐事件が起こって暫くしてから、犯人の目的が営利誘拐ではないことはなんとなく分かってくる。髭もじゃで髪の毛ぼうぼうの犯人ニーマルは一見怖そうだけど、何故だか寡黙だし、それによく見ると目つきがとても悲しそうなんだ。誘拐したローハンにも強い言葉を投げかけるけど、暴力的という訳ではないし、決して冷たくもないんだ。
そしてニーマルとローハンとの奇妙な旅が始まる。移動することで警察に居所を察知されないためだとは思うけれども、なんでこんなにあちこちへ巡るのかは、正直観ていてよく分からなかった。でもそれはどこかロードムービーのようですらある。誘拐犯と誘拐された者とのロードムービーというと、アーリヤー・バットが主演した2014年公開のインド映画『Highway』を思い出すが、あの映画では、移り変わる風景の中に、登場人物たちの移り変わる心象が託されていたように、この『Madaari』でも、ニーマルとローハンの、移り行き揺れ動く心を仮託しようとしていたのかもしれない。
とまあそんな訳で、物語の核心はそのニーマルが誘拐事件を起こしてまで追求したかったある事件、それも世の中の腐敗や不正によって起こされた事件へと言及されることになる。もはや警察なんて当てにならない、例え重犯罪を起こしたって自分がなんとかしなければ、世の中の腐敗や不正は明るみに出ないし正すことだって出来ない。こんな物語は最近IFFJでも公開された『ガッパル再び(Gabbar Is Back)』(2015)を思い出す。『ガッパル』もこの作品も法律や行政への徹底的な絶望感が立脚点になるけれども、こういった物語が生み出されてしまうこと自体にインドに生きる人たちの社会に対する鬱屈した心が透けて見えてくるようだ。
とはいえ、それを明らかにしようとしたクライマックスのシチュエーションは、遠山の金さんの前で観念した悪党が己の悪行をべらべらまくしたてているみたいで、これにより正義が成されたりと溜飲を下げるのって随分単純すぎるよなあと思えてしまった。そもそも本物の悪党なんていろんな論理が歪みまくってる上にモラルなんて一筋たりとも通用しない爬虫類みたいな連中なんじゃないのか。ただまあ、民衆の求める「正義の物語」ってこのレベルが一番収まりがいいのかもな。それと気になったのはニーマルとローハンが次第に心を通わせ合うようになる過程で「これってストックホルム症候群だよね」と言わせちゃうってことで、いやそれ分かってるけど言葉で説明させちゃダメでしょ。そういった部分で、なーんかシナリオの推敲の仕方が未熟だな、と思えてしまった作品だったなあ。あ、イルファン・カーンはいつものように一ヶ月便秘しているみたいな陰鬱な顔つきしていてとってもよかったです。