善も無く悪も無く神すらもいない世界〜アジャイ・デーヴガン主演のサスペンス作品『Drishyam』

■Drishyam (監督:ニシカント・カマト 2015年インド映画)

■少年失踪事件の真相とは?

ゴアの町で起こった少年の失踪事件。容疑者として挙げられたのはケーブルTV会社を営む男ヴィジャイ(アジャイ・デーヴガン)。警官であり、失踪した少年の母でもあるミーラー(タッブー)はヴィジャイとその家族を執拗に尋問する。だが、ヴィジャイには鉄壁のアリバイがあった。失踪事件の背後にはいったい何が隠されていたのか?ヴィジャイとミーラーの火花を散らす頭脳戦が今始まる。監督は『Mumbai Meri Jaan(2008)』、『Lai Bhaari(2014)』(レヴュー)のニシカント・カマト。この作品は2013年に公開された同一タイトルのマラヤーラム映画のリメイクとなる。

実は事件の真相は最初の段階で明らかにされている。主人公ヴィジャイには妻と二人の娘、という家族があった。娘のうちの一人、高校生のアンジュ(イシター・ダッタ)は野外キャンプでシャワーを浴びているところを同じ学校の少年サムに盗撮され、サムはそれをネタにアンジュを脅迫し、性行為を強要しようとする。しかし揉み合ううちに、アンジュはサムを殺してしまうのだ。真相を知った父ヴィジャイは、家族の名誉を守るため、事件を揉み消すことを決意する。ヴィジャイは、映画好きの知識を活かし、警察の捜査方法の裏の裏まで見透かし、家族全員に綿密な指示を与えた後、完全犯罪のアリバイ作りに奔走する。

対する警察官、ミーラーの追求の手はどこまでも執拗だった。ミーラーの勘は、ヴィジャイが"クロ"だと告げていた。ミーラーはたった一つの目撃情報を頼りに、事件前後のヴィジャイの行動を徹底的に洗い出し、ヴィジャイのアリバイのほころびを見つけるために膨大な面談を繰り返す。その尋問はヴィジャイだけではなく彼の家族にまで及び、遂に情け容赦ない暴力の手がヴィジャイの家族を襲うのだ。ミーラーの苛烈な捜査には訳があった。失踪した少年サムはミーラーのたった一人の愛する息子だったのだ。警察官である前に、ミーラーは一人の母として、事件を明らかにし、その犯人に正義の鉄槌を下す必要があったのだ。

■変わりゆくインド産スリラー映画


2014年後半から2015年に掛けてのインド産スリラー映画が充実している(オレがそれ以前のインド産スリラーをよく知らないのもあるが)。インド産スリラーといえば2012年公開の『女神は二度微笑む』レヴュー)というあまりに秀逸な作品があったが、この作品が一つの転換期であったのかもしれない。しかしこの作品にはドゥルガー神というインドならではの宗教性が背後に隠されていた。一方、幼女誘拐事件を題材とした2014年公開作『Ugly』レヴュー) には、ただただ薄ら寒い人間内面の"醜さ"だけが描かれることになる。同じく2014年公開の『Ek Villain』レビュー)では、「凶悪犯罪への復讐劇」というクライム・ストーリーではありがちな展開に疑問を投げかけ、「そこに"赦し"はないのか?」と問い掛けていた。そして2015年公開の『NH10』(レビュー)では都市部と地方の乖離を描き、その分断の溝を埋めるものが暴力しかない、という凄惨な展開を見せつけていた。さらに2015年公開作『Badlapur』レビュー)だ。ここではその復讐の在り方があまりに苛烈に過ぎる為に、既にして「復讐」それ自体への疑問と無効を描き出しているのだ。

これらの作品に通底するのは、まず一つが「虐げられた者の胸のすく復讐劇」といったエンターティンメント作品にお馴染みのセオリーがもはや通用しないものであることだ。そしてもう一つが、「インド的な宗教性に裏打ちされた、悪に対する善の絶対的な優位」すらも通用しなくなってきている、ということだ。さらに、融和、対話、親愛、といった、かつてインド映画で描かれていた理想とポジティビティが、まるで枯渇し尽くしている、ということだ。ここには絶対的な悪も無く、絶対的な善もない。その善悪の規範となる、"神"の存在すらない。そして、よりよい世の中にしよう、という理想すらない。この徹底的な"虚無"の果てにあるのはなにか。そこには、個々の人々が、それぞれに断絶する、身を切るような【孤独】があるだけである。誰一人信用しない、できない、という【不信】があるだけである。その【孤独】と【不信】はいったいどこから湧き上がるのか。それは目覚ましい高度経済成長の未に豊かで欧米的な生活を手に入れたインド都市部の住民たちが、その欧米的な生活の代償として背負うことになってしまった【孤独】と【不信】なのではないのか。

■善も無く、悪も無く、神すらもいない世界


主人公ヴィジャイの行動は言うまでもなく犯罪である。自らに非はないとはいえ、家族の起こした殺人事件を隠蔽し、偽のアリバイを作り、完全犯罪を目論むからだ。しかしその完全犯罪の目的は、たった一つ、愛する家族を守るための、止むに止まれぬ理由があったからだ。果たしてこの彼を、完全な悪と言い切ることができるだろうか。一方警察官ミーラーの行動は、司法当局として当然のことであり、そしてまた、失踪した息子を見つけたい、という母として当たり前の心情から起こされたものだ。だが、彼女の尋問の在り方は次第に一線を越え、女性や子供にすら容赦のない、陰湿な暴力へと発展してゆくのだ。果たして彼女を、完全な正義と言い切ることができるだろうか。

もはやここには、善も無く、悪も無い。自らの行為を正当化する神の存在すら描かれない。倫理にも、規範にも、宗教にも、何一つ頼ることなく、主人公ヴィジャイはただただ家族を守るために熾烈な戦いを続けることになる。ここには国家、宗教、近隣コミニュティから分断され、それを欺き、"家族"という最小ユニットのみしか信用しない男の姿がある。もはや自らの寄る辺となるものが、自分と家族のみ、という孤独な男の姿がある。しかもこの物語をたったひとつ正当化する"愛する家族の為"という理由すら、"ミーラーの家族を踏みにじる"という行為によって成立するがゆえに、結局は相対化され、無効になってしまうのだ。この冷え冷えとした虚無こそがこの物語であり、そしてそれは現在のインド都市部の住民が抱える心情のひとつの形であると見ることもできるのだ。

こうして様々な要素が複雑に絡み合いながら物語は展開し、『Drishyam』は深い余韻を残すクライマックスへと繋がってゆく。これはこれまで様々な作品の中で深化していったインド・サスペンスのひとつの結実点なのではないか。寡黙な主人公ヴィジャイを演じるアジャイ・デーブガンはまさにはまり役と思える素晴らしい演技を見せ、警察官ミーラーを演じるタッブーはひたすら冷徹な女を演じ切る。彼らの代表作のひとつとなることは確実だろう。本年度を代表する傑作インド映画として是非お勧めしたい。

なお、この作品には実は東野圭吾原作の小説/映画である『容疑者Xの献身』の盗作疑惑が挙げられている。自分はこの作品を知らないので判断はできないが、「カーヴェリ川長治の南インド映画日記」においてオリジナルのマラヤーラム映画を基に検証されているので、気になった方は御一読を。どちらにしろ映画としての完成度は恐ろしく高いものであることは断言できる。