ティプトリー最晩年の作品集『あまたの星、宝冠のごとく』には濃厚な死の匂いが漂っていた

■あまたの星、宝冠のごとく / ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア

あまたの星、宝冠のごとく (ハヤカワ文庫SF)

地球からの異星調査隊が不思議な共生生物と出会い深い関係を結ぶ「いっしょに生きよう」、神の死の報を受け弔問に来た悪魔の考えた天国再活性化計画が意外な展開を見せる「悪魔、天国へ行く」、55年後の自分と2週間だけ入れ替わった男女が、驚愕の未来に当惑する「もどれ、過去へもどれ」など、その生涯にわたってSF界を驚かせ強い影響を与え続けて来た著者による、中期から晩年にかけて執筆された円熟の10篇を収録。

レム、ディックなど個人的に重要なSF作家は何人かいるが、その中にもう一人、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの名前がある。ティプトリーのSF作品は、一言でいえば【苛烈さ】、それに尽きる。ティプトリーの描くSFには中庸さが無い。何もかもを突き詰めた最後に、誰もが目を背けている陰鬱で窮極的な現実の光景を読者の眼前に叩き付ける。それは「愛はさだめ、さだめは死」「たったひとつの冴えたやりかた」といった作品タイトルの在り方にも現れているのではないか。

ティプトリーの【苛烈さ】はその生涯の、とりわけその壮絶な最期にすら感じられる。確かに作家の作品とその人生は切り離して考えるべきなのかもしれない。しかし今回ようやく日本で翻訳されたこの短編集、『あまたの星、宝冠のごとく』を読むと、どうしても彼女のその最期に思いを馳せずにはいられない。なぜならこの短編集の原著は、ティプトリーの死のその翌年(1988年)に刊行されたものだからだ。それぞれの短編は1970年初出の「昨夜も今夜も、また明日の日も」以外はティプトリー最後期のもので、ティプトリーがその晩年に何を感じ考えていたのかがそこはかとなく伝わってくる。

もちろん全ての作品において、というわけではないが、幾つかの作品には"SF作品としての整合感"を無視してまで立ち現れてしまう、晩年のティプトリーの"情念"が垣間見えるのだ。そこには濃厚な死の臭いと、同時に生への希求を感じざるを得ない。ある意味この作品集は、"SF作品集"という枠を超えた、ティプトリー私小説的な匂いすらするぐらいだ。それは例えば後期ディックのSF作品が、SFのくびきから離れディック個人の抱える懊悩の核心へと肉薄し、独自の宗教体系を基にした救済の物語へと変質していったのとよく似ている。そういった部分で、これまでのティプトリー短編集と比べるならSF的なものよりもむしろ寓話的な作品が多くあったように感じた。では個々の作品をざっくり紹介してみる。
「アングリ降臨」はいわゆるファースト・コンタクトとそれに伴う人類の変質の物語だが、「産児制限」といったモチーフが現れる所に多くのティプトリー作品で描かれる"生殖"に対する突き放したような態度が垣間見える。
「悪魔、天国へいく」は神が死んだ天国に悪魔がやってきて「ここどうする?」と天使に問い掛けるというシニカルな寓話作品。そしてそもそもが無神論の話ということなのだろうか。
「肉」もまた「産児制限」に関する陰鬱な物語だ。ティプトリーにとって"生殖"は嫌悪の対象だったのだろうか。ティプトリーは学生時代、中絶手術の失敗によって子供の産めない体になったというが、そういった部分が現れているのだろうか。
「すべてこの世も天国も」はエコロジカルな国の王女と環境破壊の国の王子の結婚を巡る、童話口調の物語。設定自体が寓話的だがアナロジーの意味もオチの意味も今一つ整理がついていないように思えた。
「ヤンキー・ドゥードゥル」は"戦闘用薬物"の禁断症状に悶え苦しむ帰還兵の物語。戦争の酷さを戦闘シーンではなく個人の精神的苦痛で描く凄まじい物語だ。そしてクライマックスのどこまでも虚無的な暗黒展開、これはある意味『虐殺器官』のハードコアバージョンとも言えるのではないか。作品集の中で最も透徹した絶望感に溢れる問題作だ。
「いっしょに生きよう」もまたファースト・コンタクトの物語だが、このティプトリーにしては異様に楽観的な展開はなんなのだろう。ティプトリーは晩年、痴呆症となった夫を介護し、最後に心中するという痛ましい最期を遂げるが、そういった厳しい状況の中で書かれたのであろう作品が「いっしょに生きよう」というタイトルであり、そしてそれが「死からの再生」というテーマであることを考えると、この物語の楽観性が、実はティプトリーの祈りにも似た願いであった、と思えて仕方がない。
「昨夜も今夜も、また明日の日も」はジゴロを巡るやはりペシミスティックな作品。性と死が対になっている部分にティプトリーらしさを感じる。
「もどれ、過去へもどれ」は奇妙な作品だ。「未来の自分に今の若い体のまま入れ替わる」という変則的なタイムトラベルものだが、"今現在"の段階ではカップルになる筈の無かった二人の男女が未来においては幸福な結婚をしていて、その未来に大いに戸惑う、という物語なのだ。そしてこれが妙に長い。これは年老いティプトリーが、今の伴侶と知り合い結婚生活を続けてきた、その出会いの不思議を回想したものなのではないだろうか。だからこそその思いを長々と綴ってしまったものなのではないか。ラストに待つ残酷な運命は、自らの運命を予見したものとすら思わせてしまう。
「地球は蛇のごとくあらたに」はこの地球を、文字通り「愛してしまった」女が主人公の、破天荒すぎるブラック・コメディ。もし今「ユーモアSF集」を編纂するなら是非入れておきたいとんでもないスラップスティック作品だ。まさかティプトリーで吹いてしまうとは…。
「死のさなかにも生きてあり」は、これもまた死の物語であり、朦朧とした死後の世界を描いた作品だ。やはり最晩年に書かれた作品らしく、もはや「死」に取り付かれていたのではないかとすら思わせる内容である。しかもそれは絶望ではなく、無感覚に近い涅槃の灰色の光景だ。ここに切れ味のいいティプトリーの作風は無く、ただ茫洋とした悲哀があるだけなのだ。
ところで全体的に訳文に難があるように感じた。元のティプトリーの文章が抽象的過ぎるのかもしれないが、幾つかの作品では時々なにを言っているのか分からないことがあった。それと、あろうことかティプトリーの1988年刊行の最後の作品集が今頃やっと出る、というのも、まあ出たから嬉しいのだけれども、どうしてなんだろうかなあ、とちょっと思えてしまった。まあ端的にティプトリー作品集ってそんなに売れてなかったのかもね…。みんなもっと読もうよ…。