■紙の動物園 / ケン・リュウ
ぼくの母さんは中国人だった。母さんがクリスマス・ギフトの包装紙をつかって作ってくれる折り紙の虎や水牛は、みな命を吹きこまれて生き生きと動いていた…。ヒューゴー賞/ネビュラ賞/世界幻想文学大賞という史上初の3冠に輝いた表題作ほか、地球へと小惑星が迫り来る日々を宇宙船の日本人乗組員が穏やかに回顧するヒューゴー賞受賞作「もののあはれ」、中国の片隅の村で出会った妖狐の娘と妖怪退治師のぼくとの触れあいを描く「良い狩りを」など、怜悧な知性と優しい眼差しが交差する全15篇を収録した、テッド・チャンに続く現代アメリカSFの新鋭がおくる日本オリジナル短篇集。
中国系アメリカ人作家、ケン・リュウの日本独自SF短編集がこの『紙の動物園』だ。「ヒューゴー賞/ネビュラ賞/世界幻想文学大賞」という謳い文句もあってか、注目度も評判も上々で、本の売り上げもなかなからしいのだが、最初それほど食指が動かなかった。表題作のタイトルにどことなくセンチメンタルな甘ったるさを感じていたからである。それでも周囲の騒がれ方にやっと重い腰を上げて読み始めることにしたのだ。するとどうだ、なんとこれは、単に傑作SFなだけではない、ひょっとしたら現在最高のSF作家によるSF小説集なのではないかという確信がじわじわと強まってきたではないか。少なくとも、オレの中でケン・リュウは、グレッグ・イーガンを既に越えた。
実のところ、ヒューゴー賞/ネビュラ賞/世界幻想文学大賞受賞作であり、この短編集の中で最も評判の高いタイトル作、「紙の動物園」は、想像通りセンチメンタルで甘ったるい作品ではあった。中国移民の母子を巡る心の断絶を描いたこの物語は、その中にファンタジックな要素を加味することによりひとつの悔悛を謳いあげるが、個人的には大陸的ともいえるウェットな叙情性が居心地悪かった。続く「もののあはれ」は地球への小惑星衝突から退避した宇宙船におけるドラマを描くが、中心となる日本人像がちょっと持ち上げられすぎで、「いやあ日本人って同調圧力強いだけの民族っすよ」と思えてしまい、ノレなかった。難民申請の中国人と弁護士とを対話の中にこれまたファンタジックな幻想を織り込む「月へ」は、幻想を見ることによってしか救われない惨たらしい現実を浮かび上がらすけれども、まだ未完成な作品に思えた。
しかし中国奥地に伝わる縄文字を端緒とする「結縄(けつじょう)」は、縄文字と遺伝子パターンとをSF的な着想で結びつけ、なおかつ著作権付き遺伝子操作作物を物語の要素に加えることで、ようやくこの作家のSF的技量を見ることができてほっとした。ただ著作権付き遺伝子操作作物についてはパオロ・バチガルピの長編『ねじまき少女』で既に取り扱われているので、それほどの新鮮さは感じなかったが。そして続く歴史改変SFテーマである「太平洋横断海底トンネル小史」だ。太平洋戦争が回避され、上海-東京-シアトルを結ぶ遠大な海底トンネル建設が成された別の歴史を描くこの作品は、「日本による侵略がなかったアジア」という理想の世界に、しかしそれでもアジア的な暗部が奔出する重い物語である。それはかつての大日本帝国や現在の中国共産党による非人間的な全体主義の影なのかもしれない。
小品の「潮汐」、メタフィクショナルな創作遊戯「選抜宇宙種族の本づくり習性」は作者の幅の広いテーマのありかたをうかがわせる。そして遭難により未知の惑星に不時着した女のある体験がテーマとなる「心智五行」から作者の真価がいやおうなしに発揮されてゆく。レム的でもありティプトリー的でもある異文化同士の乖離が描かれるこの物語の本質にあるのは、西洋と東洋の、その合理性と直感性との決して相容れない齟齬でもあるのだ。欧米がその中心となる科学合理主義的なSFというフィールドの中で、中国系アメリカ人である作者がどのように「東洋的なるもの」の居場所が存在するのか一石を投じた作品だといえるのではないか。
そして「どこかまったく別な場所でトナカイの大群が」では、「データ化された人格と化した人類」といったSFではお馴染みのテーマを持ち込みながら、そこで語られるのは「世界を感じるということはどういうことなのか」ということなのだ。それはつまり、「生きているということはどういうことなのか」ということでもある。なんとなれば世界など、VR技術さえ発達すれば幾らでもシミュレートできるのかもしれない。人の思考は全てデータで置き換えられるのかもしれない。しかしそれは、本当に「生」なのか?ケン・リュウはここで、「データ人格」を登場させながら逆説的に「生きている感触とはなんなのか」を浮かび上がらせようとする。そしてそれは「データ化」でも「VR」でもない生の世界と対峙する人間存在の在り様なのではないか。
「円弧(アーク)」では延命技術の発達により不老不死になった人類が描かれるが、不老不死となった人間は既に従来的な人間の営みなどできないのではないか、という問題を提起する。いや、確かに不老不死になれるのならそれはありがたい。だが、人を人たらしめ、「生きたい」と願わせるのは「死」があるからこそである。「生きたい」と願わずとも生き続けられる生、そこには我々が生きる為に成すべきあらゆることが全て欠落しているということになる。それはそもそも「生」なのか?次の作品「波」も恒星間播種船の中でナノテクによる不死を選ぶ人類の話だが、その先にさらに意識のデータ化という不死がダメ押しされる。ここでも同様に「不死は既に生といえるのか?」という問い掛けが描かれてゆく。
思えばこれら「不死」「人格のデータ化」という、テクノロジーの果ての人間疎外を描くSF作品というのは、自分にはどうも眉唾物ののように思えるのだ。それは不死や永遠、そしてそこに通底する「反自然」という概念が、キリスト教圏独特のものであり、それが欧米SF作品の中に無意識的に入り込んでいるだけなのではないかと思えてしまうのだ。しかしケン・リュウは、彼が東洋的な思想のもとにあるかどうかは別としても(なんとなれば東洋にだって不死や永遠の概念はある)、テクノロジーの果ての人間疎外といった結論を善しとせず、そのテクノロジーの果てにあってもあくまで普遍的な人間存在の在り方を描こうとする作家なのだと思うのだ。そう、彼が描こうとするのはあくまで人間であり、人間の生そのものなのだ。これは、文学がやろうとしていることをSFで成しえようとしていることに他ならないではないか。これが、自分がケン・リュウの作品を「現在最高のSF小説なのではないか」と思った理由であり、最先端だったSF作家グレッグ・イーガンを既に越えた、と思えた部分だったのだ。
「1ビットのエラー」ではある種のエラーによって死を目の当たりにした男が、認識のエラーが信仰を生むことを客観視しながらそれでも信仰を得ようとする物語だ。人は科学的合理性が宗教と相容れないの知っていながら、それでも神の救済を必要とする矛盾した存在だ。なぜなら、どのような合理性にあっても精神と感情にとって「死」は不条理であり、そこから救われる術はないからだ。そしてあまりにSF的な「不死」と「人格のデータ化」は、実のところ遠い世界の絵空事に過ぎないのだ。我々の生は何によって救われるのか、というこの物語も、やはり人間性を描こうとするSF作品だ。
一方、機械的な思考ルーチンの無能を描く「愛のアルゴリズム」はテーマが先走りすぎてイーガン的な科学スリラー止まりになっている感が否めない。冷戦下の台湾における政治的恐怖を描いた「文字占い師」はこの短編集で最も重い読後感を残す。この作品集の「月へ」と同様に暗い政治テーマを持つ作品で、非SFともいえるが十分に傑作であり、「アジア系SF作家としてなにができるか」を模索する作者のその思いと力量をうかがわせる作品だ。ラスト「良い狩りを」は中国の妖怪退治師の物語として始まりながら思いもよらない展開を見せる。同時にこれは東洋的なるものが西洋的なるものに飲み込まれてゆく過程を描いた哀歌だともいえる。
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