I.
亡くなった妻の心から願ったことは、大学時代に自分が仲を引き裂いてしまった女性と夫が再び巡り会うこと。映画『Kuch Kuch Hota Hai』は主演をシャー・ルク・カーン&カージョルという『Dilwale Dulhania Le Jayenge』黄金コンビが演じ、ダブル・ヒロインとしてこれが映画初出演のラーニー・ムカルジーが顔を見せるラブ・ロマンスだ。さらに後半ではインド映画界ではシャールクとタメを張るとんでもない大物スターの登場が!監督は『家族の四季 愛すれど遠く離れて』、『マイ・ネーム・イズ・ハーン』のカラン・ジョハール。これが監督デビュー作となる。
《物語》ティナ(ラーニー・ムカルジー)は大学時代に知り合ったラフール(シャー・ルク・カーン)と結婚し、娘一人をもうけて幸福に暮らしていたが、病魔に冒され死期が近づいていた。彼女が娘に残した手紙に書かれていたのは夫との出会い、さらに夫が親友として付き合っていた女性アンジェリー(カジョール)のことだった。あのころ夫はアンジェリーへの愛に気づいておらず、自分が二人の仲を引き裂いたことに心を痛めていたのだ。ティナが亡くなり、その手紙を読んだ8歳の娘アンジェリーは、自分の名前が父のかつての親友から付けられたことを知り、その女性アンジェリーを探し出すことを決意する。そして、父と彼女を再び引き合わせることも。だが、そのアンジェリーは、結婚が既に間近に控えていたのだった。
物語をなぞるだけなら、これは恐ろしく卑怯な物語であるし、心情的に納得しにくい部分のある物語でもある。前提として大学時代の三角関係があるのだけれども、まず片方の女性には愛を呟き、片方の女性には親友だと言い切って同時に付き合うラフールは、女性目線から見るなら既にアウトだろう。結局片方の女性と結ばれるのだけれども、その彼女が、身を引いたほうの女性のことをいつまでも気にしていることも考えにくい。さらに、自分の娘に、その女性の名前が付けられることを許すことなど有り得ない気がする。だがしかし実はこういうことなのかもしれない。全てはティナが自分の死期を悟ったうえで、残された夫と娘を支え真に幸福にできるのはかつての夫の親友であり、実は心の恋人であったアンジェリーだけだろうと察し、自らの愛するものたちをアンジェリーに引き渡そうという決断だったのだと。これは一人の女からもう一人の女への壮絶な委任状だったのだ。これは後半、再び巡り会ったラフールとアンジェリー二人を見つめ微笑むティナの幻影、という形で表われる。そう考えるとこの物語は愛の持つある種の業の深さを秘めたものだと言うこともできるかもしれない。
II.
映画はインターミッションを挟んだ前半後半でカラーががらりと変わるインド映画らしい構成で、前半にはティナの死から始まり、娘への手紙による回想という形でティナ/ラフール/アンジェリーらのキャンパス・ライフ、彼らの出会いと別れのいきさつが明るくコメディ・タッチで描かれてゆく。このキャンパス・ライフの描写は非常にアメリカナイズされたポップかつ非インド的なもので、そのポップさが映画的な誇張が甚だしいのと同時に、80〜90年代ポップカルチャー特有の薄っぺらさをそのまま体現してしまったがゆえに、今観るとどうにも古臭く居心地の悪い映像に感じてしまった。これはこの作品に限らず、それがハリウッド作品でも、やはり80〜90年代ポップカルチャーが映し出された映像というのは、観ていて居心地が悪く感じるのは、これはその時代に青春時代を過ごした自分自身の、個人的な感慨であるのもまた確かだ。だからこの感想はあくまでオレ自身のものだと思って貰って構わない。この前半では友情と愛情の区別がつかないラフールのドン臭さが描かれるが、むろんそれは若さゆえの至らなさということで片付けておけばいいだろう。
物語がその真価を発揮するのは後半だ。子供のほうのアンジェリー(紛らわしいので以下「ジェリたん」と表記)はラフールのかつての親友であったアンジェリー(こっちは「アンジェ」と表記)の所在を突き止めるも、彼女は既に婚約を済ませ1週間後に婚姻することになっていたのだ。そしてこの結婚相手アマンを演じるのが…なんとサルマーン・カーン!まさか彼が出演しているとは知らなかったのでびっくりした。つまりこの作品はシャー・ルク・カーン&サルマーン・カーンというインド映画二大スターの共演作だったのだ!こりゃもう猪木vs馬場、ゴジラvsガメラ、スーパーマンvsバットマン、シュワvsスタローンの如き宇宙一頂上対決の様相を呈しているではないか!?二人の共演作があるっていうこと自体知らなかったので本当に驚いた。しかし親の決めた結婚だから本当はヒロイン・アンジェにあんまり愛されてないという設定のサルマーン、既にして「俺は当て馬じゃねーんだぞ?!」という恨み節が聞こえてきそうな配役ではある。この作品がもとで二大カーンが決別したとかいうことはないんだろうか。
III.
後半からはジェリたんが出向いたサマーキャンプを舞台に展開する。そしてそのサマーキャンプを引率をしていたのがアンジェだったのだ。パパとアンジェをくっつける為に様々な策を弄するいたいけなジェリたん。アンジェがいるとも知らずのこのことジェリたんのいるサマーキャンプにやってくるパパ・ラフール。ここで遂にラフールとアンジェは再開する。突然の出会いに驚きと喜びと決まりの悪さで変な表情を浮かべながらモジモジと怪しい動きをしまくるラフールとアンジェの二人の姿に、もう観ているこっちまで妙なドキドキが止まらない!くっそー、メチャクチャいいシーンだぜ!ここから物語は一気呵成にこれまでの溝を埋めてゆく二人を描いてゆく。この後半からの昂揚感と幸福感はなぜこの作品が名作と謳われているのか大いに頷きたくなるような素晴らしさに溢れている。豪雨の中あずまやに駆け込んだ二人がお互いを見つめあい気持ちを高めてゆくシーンなどはこの作品屈指の、ひょっとしたらインド映画史でも屈指の名シーンといえるだろう。だが、そんな幸福は束の間だったのだ。アンジェの婚約者アマンがサマーキャンプにやってきたのである。
この作品を観て思ったのは「偶然の不思議さ」である。物語は様々な偶然を重ねながらラフールとアンジェを次第に近づけてゆく。しかしその偶然の不思議さは決して強引さを感じさせず、そこに運命の綾を見出させてしまうのだ。実はアンジェの結婚式は星占いにより延期させられていた。しかし同時にジェリたんが「パパとアンジェを引き合わせてください」と神に祈るシーンが挟まれた。これは単なる偶然である。ラフールとアマンが初めて出会うのは「アンジェリー」からの呼び出し電話による電話の取り間違えだった。これもまた偶然だろう。自分と同じ名前の娘の存在に不思議がっていたアンジェが、観ていたTVに偶然写っていたラフールの「愛してるよ、ジェリたん!」という言葉に全てを察してしまう。しかしTVを観ていたのも偶然だ。しかしこの「偶然の不思議さ」は、運命というものがズルズルと登場人物たちをたぐり寄せている感覚が非常にするのだ。タイトルは「何かが起きてる」という意味なのだが、この何かとは、「運命の輪が廻っている」ことに他ならないのではないか。そして運命とは生々流転するカルマであり、インド国旗にあるあの法輪のことである。そしてそれは神命の謂である。すなわち映画『Kuch Kuch Hota Hai』は神の意志によって再び引き合わされた男女を描くラブ・ロマンスだったのではないだろうか。