その二つの名は同時に呼ばれてはならない〜映画『Veer-Zaara』 【SRK特集その10】

■Veer-Zaara (監督:ヤシュ・チョープラ 2004年インド映画)

I.

パキスタンのとある刑務所に、22年間誰とも口を聞かず収監されているインド人がいた。彼は刑務所で「囚人番号786」とだけしか呼ばれておらず、いわばそれが彼の名前だった。そこにある日一人の女が訪ねてくる。彼女はパキスタン初の女弁護士サーミヤー・スィッディキー(ラーニー・ムカルジー)。彼女が囚人に「あなたの名はヴィール?」と呼びかけると、囚人はその名に反応し、おずおずと彼がこの刑務所に入れられることとなった事件を語り始めた。それは22年前のある日、ふとしたことから知り合った、パキスタン女性とインド人男性の物語だった。

シャー・ルク・カーン、プリーティ・ズィンター主演、監督は「ロマンス映画の帝王」と呼ばれ、インドを代表する大監督ながら、2012年に惜しくも逝去したヤシュ・チョープラ。この『Veer-Zaara』は公開年の2004年にインドで最大のヒットを記録した作品であり、紛争の続くインドとパキスタンの、国境を越えた禁断の愛を描いた作品なのだ。タイトル『Veer-Zaara』は、主人公となる男女のそれぞれの名前だが、劇中、「その二つの名は共に呼ばれてはならない」という台詞が出てくる。二人にはいったい何が起こったのだろうか。

II.

22年前。インド空軍のパイロット、ヴィール(シャー・ルク・カーン)はパキスタン女性ザーラー(プリーティ・ズィンター)をバス事故から救う。ザーラーは印パ分離独立時にパキスタンに移住した祖母の遺灰を、故国インドの川に流すためにやってきていたのだった。ヴィールは無事目的を遂げたザーラーを、ローリー祭の最中である自らの生まれた村へ誘う。実はヴィールは、事故救出時にザーラーへほのかな想いを寄せていたのだ。見果てぬ田園の続くインドの田舎町の片隅に、ヴィールの家はあった。そこでは父母無きヴィールを育てた叔父(アミターブ・バッチャン)と叔母(ヘーマー・マーリニー)が待っていた。ヴィールの家族に温かく迎え入れられたザーラーは、また再びこの村にやってくることを約束した。

この前半の、インドの田園風景が美しい。それはどこまでものびのびとした解放感に満ち溢れ、そこにいる人々は気さくで気兼ねなく、空気の温かさまで画面から伝わってきそうだ。そしてここで登場するアミターブ・バッチャン、実は自分は今まで、カメオ出演という形で映画に登場するアミターブ・バッチャン以外を観たことがなく、この映画での出演も知らずに観ていたので、突然の「インド映画の皇帝」の登場に驚きそして嬉しかった。ここでアミターブ・バッチャン演じる叔父は、女性の立場を理解し、またザーラがパキスタン出身でも、イスラム教を信教していても何一つこだわらないコスモポリタンな男性として登場するが、これが実は後半の展開と陰影を成しており、登場時間こそ少ないものの重要なキーパーソンとなっているのだ。それと合せ、ここで登場するローリー祭の様子は実に素朴で賑やかで、気持ちを和ませた。

III.

ヴィールはパキスタンに帰るザーラーを見送るが、そこで彼はザーラーに求婚しようと考えていた。だが、彼女に婚約者がいたことを知り、彼は静かに身を引く。しかしザーラーもまたヴィールを愛していることに気づき、そのことを母にほのめかしてしまう。それを見ていた使用人の電話により、ヴィールは一路パキスタンへと駆けつけるが、二人の関係が不可能なものであることを悟った二人は、別れを決める。しかしパキスタンを去ろうとしていたヴィールを、警官が取り押さえ、スパイ容疑で逮捕してしまう。実はそれは、結婚前に顔に泥を塗られたザーラーの婚約者の陰謀だった。ザーラーの幸福のために、ヴィールは濡れ衣の罪を受け入れ、そして22年の歳月が過ぎて行ったのだ。

ここからの展開はパキスタンが主な舞台となる。インドとパキスタンの相克を描いたインド映画というと思い出すのは『Bhaag Milkha Bhaag』だ。『Bhaag Milkha Bhaag』でも印パ分離独立が物語の鍵となり、そして大会でパキスタンに乗り込むところがクライマックスとなる。この『Veer-Zaara』でも、インドとはまた違う家屋様式、人々の服装、文化・生活の在り方を垣間見ることがとても興味深かった。これは国民の殆どがイスラム教である、という部分における違いなのだろうが、映画の内容とは関係なくその「イスラムとしてのパキスタン」の光景が目新しかった(当然セットもあるのだろうが)。

IV.

そして「イスラムとしてのパキスタン」としてもう一つ面白かったのは、主人公ヴィールの囚人番号「786」である。冒頭、ヴィールと面会した女弁護士サーミヤーはこの番号を聞いて驚く。そして「この囚人は神に愛されている」と呟くのだ。それはなぜか。「786」とはイスラム聖典コーラン」における「仁慈あまねく慈悲深き、アッラーの御名において」という定型の祈祷文を数秘術により数字化したものなのだという(「786」の聖なる意味)。ここにこの映画のイスラム神秘主義的側面が見えるが、これは物語後半における奇跡のような驚くべき展開と呼応するのだ。

この物語、後半で弁護士サーミヤーがヴィールの自由を訴える法廷劇へと発展するのだ。しかしザーラへの愛ゆえ冤罪に耐えてきたヴィールは、法廷でザーラの名を出さないようサーミヤーに要求する。だがこれではヴィールが収監された理由を説明することができない。万事休すのサーミヤーは、しかしあることを思いつく……。ここからはもう怒涛と驚愕の展開、目の前で起こっていることに心打ち震え、優れたシナリオに感嘆することだろう。最初ありふれたラブ・ストーリーとして始まったものがメロドラマへと様相を変え、さらに政治劇、法廷劇を経た後に、運命の不思議、奇跡とも呼べるものの顕現を見せつけ、感動のうちに大団円を迎える。なんとこれは驚くべき物語なのだろう。およそ3時間という長尺だが、長尺だから見せることのできる大河ドラマの如き濃厚な作品、それがこの『Veer-Zaara』なのだ。

http://www.youtube.com/watch?v=OSaVImLnnsw:movie:W620