■盗賊に襲われた村を救え!マサラ・ウェスタン・ムービー『Sholay』!
Sholay (監督:ラーメーシュ・シッピー 1975年インド映画)
インドで最も有名な映画は何か?というとまずこの『Sholay』が挙げられるのだという。1975年に公開され空前絶後の大ヒットとなり、その後8年のロングランを続けたこの作品は、インド映画の皇帝ことアミターブ・バッチャンの人気を決定付けた主演作でもある。そしてその物語はというと、ハリウッド映画『荒野の七人』を下敷きにした大マサラ・ウェスタン・ムービーなのだ。ただしヒーローとなるのは7人ではなくヴィール(ダルメンドラ)とジャイ(アミターブ・バッチャン)のチンピラ二人組。映画は冒頭から爆走する蒸気機関車を襲撃する盗賊一味とヴィール&ジャイ・コンビのスピード感溢れる大戦闘で幕を開ける。このシーンから既にウェスタン・ムービーの雰囲気ムンムンで大いに盛り上がるのだ。
この時の二人の戦いぶりを知っていたある村の村長が、二人を探し出すところから物語は本題に入る。そう、その村は山賊の襲撃に悩まされており、ヴィール&ジャイを用心棒として雇おうとしていたのだ。かくして一つの村を中心に、山賊と村人、ヴィール&ジャイの、一進一退の大攻防戦の幕が切って落とされるのだ。山賊の首領ガッバル・シン(アムジャード・カーン)はサディスティックなサイコ野郎で、仲間だろうがなんだろうがなぶり殺しにしまくるところがオソロシイ。このガッバル・シンにかつて家族を皆殺しにされ、両腕を奪われた村長の回想シーンは、そこだけ残虐ホラーと化してしまったかのような惨たらしさで観ていて固まってしまった。しかもその村長の復讐方法は香港映画か!?と思わせる奇想天外さで、この映画のなんでもありぶりをうかがわせる。
それとは別に合間合間でヴィール&ジャイのやんちゃな放蕩ぶり、恋の駆け引き、歌と踊り、そして村祭などが挿み込まれ、インド映画らしいちょっと緩めの賑やかさで盛り上げられてゆくのがまた嬉しい。実はヴィール&ジャイはもともと犯罪者で、機関車に乗っていたのも護送中だったからだし、この村にもム所から出所した後だったりする。こんな社会の鼻つまみ者が、次第に村の人々に馴染み、信頼を得て正義へと目覚めてゆく過程がカッコいいのだ。そしていよいよ山賊たちの襲撃シーンでは、ヴィール&ジャイの八面六臂の大アクションが展開だ! 山場はいくつも設けられ、物語は非常に緩急豊かで、古い映画なれどなかなかに魅せてくれるのだ。
見所はあれこれあるが、特に後半の、山賊の騎馬隊による村娘の馬車の追跡シーンなどは、そのスピード感はもとより、「まだ続くのか!?」と途中で思ってしまうほどの長さで描かれており、そのしつこさが異様な緊張感を画面にもたらしてゆくのだ。さらに囚われた村娘が山賊の首領ガッバルに踊りを強要され、怪我をおして舞い踊るシーンもまた異様に長い。ここでもその長さがガッパルの狂気と、死と隣り合わせの踊りという恐怖感をあおってゆく。これらあり得ないようなバランス配分の演出が強く印象に残った。これらの、技巧に頼らず「ひたすらとことん描く」という部分にこの作品の真骨頂があるのだろう。まあそもそも長い映画なので、中盤のキャッキャウフフシーンが若干ダレるのは致し方ない。
■聖者に祀り上げられた一人の男の贖罪の物語〜映画『Guide』
Guide (監督:ヴィジャイ・アーナンド 1965年インド映画)
刑務所から出所したばかりの男ラジュ(デーヴ・アーナンド)は奇妙にひょうひょうとした悟りめいた人生観を持っていた。インドの様々な地方を彷徨う彼はある村に立ち寄るが、その忌憚のないものの見方から聖者に祀り上げられる。実はそんな彼にも紆余曲折する過去があった。考古学者に虐げられているその妻ロージー(ワヒーダー・ラフマーン)を救い出し、彼女の得意な舞踊の技を引き出して引きも切らぬ名舞踏家へと成長させたのだ。しかし慢心したラジュは詐欺を働き、そして刑務所に入れられたのだ。さてラジュを迎え入れた村は深刻な旱魃に悩んでおり、ラジュに雨を降らせて欲しい、と哀願するのだが…。
映画『Guide』は一人の男の中に混在する俗性と聖性を、その原罪と贖罪の在り方を描こうとする作品だ。考古学者のガイドだった男が、後に村人を救うガイド〜導き手となる、といったダブルミーニングのタイトルも面白い。ラジュはその罪を乗り越え達観した人生観を持つ男として生まれ変わるが、だからといって聖者というわけではない。当然ながらそんな彼に雨など降らせる能力などないにも関わらず、村人たちは藁をもすがる思いで彼に助けを求める。そこでラジュが決断したこととはなんだったのか。
この映画のクライマックスではインド映画らしい宗教観が凄まじいまでにほとばしり、神を乞い求めることの偉大と神秘が描かれてゆく。ただし中盤までの殆どはラジュとロージーとの出会いと幸福、その終焉が中心となり、ひとつのラブロマンスとして観ることもできる。この部分は今観ると若干紋切り型に過ぎるように思えるが、この辺は古い映画なので致し方ないかもしれない。