- 長回しの凄い映画でしたね(棒読み)。
- (でもどうして長回しだと凄いんだろう…)
- あとはうーんっと…なんだか主人公が始終ウダウダグダグダしまくってて、そこん所うんざりさせられた映画だったなあ。まあ退屈はしなかったんですが、絶賛するほどの映画かあ?てな感じ。
- アメリカ演劇に携わる人間の逡巡と葛藤を描いた映画なんですが、観てるオレ自身が演劇とかブロードウェイとか興味ないので「どうでもいいやあ」と思えてしまうんですよ。アメリカ人はブロードウェイ演劇だのショウビズ絡みが好きだからその辺であっちの国ではウケたんでしょうけどね。
- 自らが初演出初出演の演劇作品に携わることの苦悩、ってのは分かるんですが、なーにしろ主人公グダグダし過ぎで、「おめーは覚悟ってもんが足りねーんだよ!」とイラつかされましたよ。だってそれ、あんたの選んだ仕事だろーが。と思う訳なんですよ。
- これが演劇っちゅうなんだか芸術ぽいジャンルだからたいそうな苦悩のように一見見えてしまうのかもしれないけど、仕事って意味では誰だって苦悩や葛藤はあるわけじゃないですか。そういった意味じゃあ「甘えてんじゃねえ」と思っちゃうんだけど。
- だったらブラックな企業で長時間残業させられてるサラリーマンだって大変でしょうから、そんなサラリーマンの仕事ぶりを徹底した長回しで描いて、合間に「俺は本当はユーチューブで3万アクセスさせた男なんだ!」とか言わせたらこの映画の構造と同じ風になるんですね。まああんまり見たくないけど。
- しかしこの映画にはかつて主人公が演じて大人気を得た【バードマン】というスーパーヒーローキャラの影をちらつかせることで、なんか凄い深いことを言っているかのように見せてるんですね。じゃあこの【バードマン】っちゅうのはなんなのか?ということをちょいと分析してみましょう。
- まず主人公はなんだか知らないけど超能力を使えます。ただし人の見てないところだけで。この演出からこの超能力は妄想なんだな、ということは誰でもわかるでしょう。ではなぜこんな演出が入るのか?というと、これは「本当の俺はなんでもできるはず」という主人公の全能感への強烈な欲望を表しています。しかし現実にはそうではない。つまり「本当の俺」と「現実の俺」の乖離がここにあるわけです。
- では人気キャラ【バードマン】はその全能感の象徴なのか?というとそうではないんです。【バードマン】は主人公のかつての栄光ではあるにせよ、それは主人公自身により「下らないガキ向け映画キャラ」として否定されているんです。現在の主人公が芸術的な演劇を目指しているところから分かるように、ここでも「本当は芸術志向な俺」と「現実はガキ向け映画で人気者になった俺」という乖離があるわけです。
- つまりこの映画は「本当の俺はこうじゃない」といういい年こいて現実見ずにみっともないことを言ってるおっさんの戯言についての映画ということができるわけです。
- 「本当の自分」なんて存在しねーんだよ!今ある手も付けられない、しょーもない、グダグダのあんたが本当のあんたなんだよ!
- 映画では途中途中で「バードマンの声」が聞こえて主人公を苛みます。それは「現実に気づけよ」という声でもあるのです。
- しかし物語途中でバードマンと一体化したかの如く空を駆け全能感にひたりまくる主人公の姿はなんだったのでしょう。主人公はバードマンという望まぬ過去の栄光を容認したわけでも自らのグダグダの現実に気づいたわけでもないにも関わらずです。
- むしろこれは、「現実の自分」を容認できず、「本当に自分」にも手が届かなかった主人公の、徹底的な自己否定の果てにある窮極的な絶望状態、そしてそれによる思考の破綻、思考の停止を表したものなのでしょう。
- ではあのラストは?これは【無知がもたらす予期せぬ奇跡】という副題にあるように、自己否定の果てに自分が《ゼロ》になった者がはからずして大どんでん返しを演じてしまった、という意味になります。
- しかし、自分が《ゼロ》になってしまった者が誰しも大どんでん返しを演じるわけではありません。結局あれはたまたまです。現実に対してなにがしかの方策を講じなかったにもかかわらず最後はどうにかなってしまっただなんて虫のいい話だと思います。
- そういった部分で、この物語は現実に対し葛藤し苦悩し逡巡する人間に対して何一つ示唆を与えるものではありません。そんな所が、なーんかイマイチな映画だよなあ、とオレは思いましたね。
http://www.youtube.com/watch?v=_XOBBmyYNJA:movie:W620