『考える生き方』を読んでわしも考えた

■考える生き方 空しさを希望に変えるために / finalvent

考える生き方
finalventさんというのは言わずと知れた「極東ブログ」の主催者であり、"アルファ・ブロガー"であり、そのアカデミックな視点で名を馳せる人だ。ただ、自分は昔から"アルファ・ブロガー"と呼ばれる人の書くブログには殆ど興味が無いし(基本的に大雑把だし、断定が多いし、時として主語が大きいし、デリカシーに乏しく感ずることが多いし、なにより味わいに欠ける文章を書く人がほとんどだ)、アカデミックなものに憧れはあるにせよ、付いてゆけるほどの基礎知識が無いので途中でなんだかもうチンプンカンプンになっちゃう性質なのだ。そんな自分だが、なぜかfinalventさんという人の書くものが好きで、「極東ブログ」も、自分に興味が持てるものと理解できるもの限定だけれども、たまに興味深く読ませてもらっていたのだ。
なぜfinalventさんが好きなのか?というとこれは文章から滲み出る人柄から、としか言いようがない。アカデミックなことを書くブロガーならネット上にはそれこそ掃いて捨てるほどいるし、知識と情報に満ち溢れたブロガーも星の数ほどもいるが、finalventさんのそれは、あくまで「個人的興味」からなのだ。その「個人的興味」が広範だからアカデミックなのだけれども、それを啓蒙しようとか社会派ぽく問題提起しようとか当然知識の羅列でお茶を濁そうとかいう態度が全くない。押しつけがましくなく、背中に肩書だの社会的立場だのを背負っていない。ネットや社会のパワーゲームにまったく興味を示さない。finalventさんは孤独な個人であることにこだわっているようにすら感じられる。そして、オレのよく読むブログの殆どは、肩書も社会的立場も最初から関係ない、孤独な個人であることから発信しているような方が多く、いびつでも偏っていても馬鹿ばかり言っていても、その人としての生の声が好きだからこそ読んでいるブログばかりで、決して知識や情報を得るために購読しているわけではないのだ。
オレがfinalventさんに興味を持ったのは、知識だけではなく、そのどこか「引いた」ところにあった。謙虚とも腰が低いとも違う、どこか、超然としているというか、何かに諦観しているというか、ガツガツするのを嫌うというか、知識や知性だけではない態度の在り方で、逆に言えばそれ自体が一つの"知性"の在り方と言ってもいいかもしれない。沢山モノを知っているだけでも、分析力演繹力抽象力が優れているだけでも実は知性とは言えない。知性の無い自分が言うのもなんだが、知性というのはそういったものをひっくるめて外に表出する"態度"なんではないか。オレなんか態度が悪いのから推して知るべしだが。finalventさんのそういった「引いた」態度って、実は「極東ブログ」ではなく「finalventのブログ」のぶっきらぼうなほどの淡白さやTwitterでの本人をして「自分はTwitter向きじゃない」と言わしめるほどの不器用な呟きを見てると伝わってくるのだ。ああなんかいいなあこの人、と思わせるのだ。まあ要するに、どんな知性でも別にいいんだが、finalventさん的な知性のありかたが、オレにとっては一番フィットするっていうことなんだ。
そんなfinalventさんが本を出した。『考える生き方』というタイトルで、ご本人も言及されているが、「自分語り」の内容だ。かねてから、「この人はいったいどういう方なのだろう?」と興味津々だった自分はさっそく読んでみた。「仕事・家族・恋愛・難病・学問、そして「人生の終わり」をどう了解するか?「極東ブログ」を主宰し、ネット界で尊敬を集める有名ブロガーが半生と思索を綴る」と惹句にあるように、そこにはfinalventさんの紆余曲折を経た半生と共に、それと自分がどう向き合ってきたか、どう考えてきたのか、が書かれている。書かれてはいるが、それは「こうすれば成功する!」だの「こうすればがっぽり儲かる!」などということが書かれているわけでは当然無い。もちろん「こう考えるのが人生を乗り切るベターな方法」といったハウツーものでもない。逆に書かれているのは、「そんなに成功した人生なんかじゃない、むしろ失敗した人生なんですよ」ということと、「自分の人生って空っぽだったのかなあ、と思うことがあります」ということだったりする。だからこその「空しさを希望に変えるために」という副題なのだ。
自分は今50歳だが、ぶっちゃけ知性教養学歴のあらゆる方面で恥ずかしくなって穴に入ってそのまま冬眠したくなっちゃうほどまるでたいしたことがないし、社会的には3K中小企業のしょぼくれた給与生活者だし、その収入もオレの能力程度に見合った低水準だし、家庭らしい家庭も持っておらず、毎日は仕事に疲れて帰ってくるだけ、あとは酒飲んで忘れましょうという、まあひっつめるとfinalventさんが言うような「失敗した」「空っぽの」人生ということもできるかもしれない。もちろんfinalventさんと自分を同列に並べるなど僭越も甚だしいが、むしろ逆にfinalventさんはこの本を読む多くの人に、自分とこれを読む人とは同列みたいなものだと思ってもらいたいし、そういう立場から、「人生、成功はしないかもしれないけれど、考えて生きていけばなんとかなるんじゃないか。なんとかなって、日々、それなりに生きている実感みたいなものを考えて見つけていけたら、それでいいんじゃないか」と言おうとしているのだ。まあオレはだからといって「よし!今日から考えて生きよう!」とはすぐ思わない程度にひねくれた人間ではあるが、成功でも幸福でもなく「生きている実感を感じたい」というのは、本質的なことだよなあ、ということは共感できる。
それと同時に、これは「老いる」ということについての本である。finalventさんは現在55歳で、難病も患っていらっしゃるという。老いる、というのは死が近づいていることを実感する、ということで、finalventさんの5つ下の自分にも、その実感は大いにある。幸い難病こそ患ってはいないが、もう体のあちこちがガタだらけだ。脳に関してはガタガタだ。過去に感じていた以上に将来により多く不安を感じるようになった。finalventさんもここで「絶望しちゃうよなあ」みたいなことを言う。でも、「絶望ってやっぱり駄目だよな」と続けて、絶望に至らないよう考えようとする。でもこう考えると絶望しませんよ、ではないし、考えてこういう結論が出ました、でもない。死は理性にとって最も不条理なものであり、その理由に綺麗な結論が出るわけでもない。でもある意味生そのものも随分と不条理だ。それを考えても明確な回答が出るという確約もない。でもだからこそ、考えていこう、というのがfinalventさんの生き方なのだろう。finalventさんは別に一緒に考えていきましょう、なんて一言も書いていないし思ってもいないだろうが、なんだか一緒に考えていきたくなる。それは常に読者に寄り添った内容のこの著作の在り方があったからこそなのだろう。ああいいな、finalventさんのこと、やっぱりオレは好きだな。

考える生き方

考える生き方

考える生き方

考える生き方